小説「むかしむかしはおじいの嘘か?」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

「ほらふき男爵の冒険」
という本を、仕事で行った小学校で見つけた。非常に懐かしかった。
出版社も訳者もおそらく違うだろうが、子どものころ家に同じ本があった。
ものっすごいウソばっかりつく男爵さまのお話なんだけど、
時代なのか、
作中の人々は男爵の話にすっかり乗っかってしまう。
あるいは男爵の
話術がちょー魅力的なせいだからか、
これがウソでも一銭の価値くらいにはなるわいなと思ってしまうのかもしれない。
と、思って仕事の手もそこそこにちょっとページを捲ってみたら、
記憶にある男爵のすったもんだと
ページ日らるる男爵のすったもんだにはなんだかだいぶん隔たりがある。
仕方が無い。
私の子どものころといえば何十年も昔だ。
この本はここ何年かに再販されたものじゃないか。
(絶版になっても時間がたてば著作権の問題がクリアされて
昔よりは安く版権を買えるからこういうリバイバルは割りとよくある)
私はそう判断したのだが、実際はそうでないんじゃないかと
家に帰ってから気付く。
本の中の男爵さまにひけを取らないくらい、
私のじいさんはおっそろしい嘘つきだった。
だから男爵さまのついたうそと、じいさんのついたうそが
自分の中で混同されている恐れがある。
じいさんはおっそろしくうそつきだったのだ。
男爵さまにひけを取らないくらい。
つまりこういう話を、ちびだった私にじいさんがしたのだった。
じいさんが戦争に行ったときの話だ。
じいさんは彼の世代には珍しく、二浪しているにしても夜学にしても
大学まで出た人で、建築士の資格を持っていた。
だから戦地へ送られても、豪を彫ったり橋を架けたり、
後方というのか、違う気もするが、
とにかく鉄砲かついで肉の壁にされることがまず無かった。
進軍するのに橋を掛けられる人間が居ないことにはね。
死んで帰るということが無かった。
なかったからこそこうして自分が居るのだけど。
だからと言って平々暢々と日を送っていたはずが無いから、
それなり、
という言も妙だが「かなり」な経験を当然していることだろう。

しているはずなのだ。
自分はもうばばあになっているのでそういうことが分かる。
(戦争の当事者をやって「かなり」な目に遭わないわけにはいかない)
じいさんは戦地で「かなり」な思いをして、いや、
「あんまり」な思いをしたがために、あえてそれを
愉快な冗談にして孫に語りたかったのか。
あるい日じいさんは何人かの同輩と偵察にやらされて、
(新しく基地をつくるのによさそうな場所を探すのだ)
はぐれて一人きりになってしまった。
その時の軍備に方位磁石が在ったかは知らない。
あっても役に立たない地形だったのかもしれない。
彼の居たのは生まれたままのジャングルで、人が歩くためには出来ていないのだった。
何らかの目印を求めて部隊の居るところに戻ろうとするのだけど、
名前も知らない木が生え狂う中に、どんな目当てを見つけられると言うわけもない。
やがて日が落ちて、じいさんは完全に途に迷った。
火口になるものくらい持っていただろう。
しかし下手に灯りをつけてどこに居るのか分からない敵に
自分を知られることを恐れもしただろう。
影の中に浮かぶちょっと違う影、
木や地面の輪郭のみ頼ってよろよろ進んでいたじいさんの目に、
「中途半端な光」
が見えたという。
地面の一部が光っていた。
光っていたけど、どうしてもそこに近づけないのだと言う。
真っ暗なな中に光だから、素晴らしくうれしいものだから、
じいさんは必死で、どこに通じているものだったかも分からないが、
その光を追いかけた。
でも追いつけないのだと言った。
どうしてもどうしても追いつけないのだと言った。
どんなにもどんなにも逃げていくと言った。
じいさんはその光に、うずらの親みたいなのを感じたそうだ。
うずらの親?
なんのことだと思うのだが、
うずらみたいな鳥というのは、自分の子どもを食おうとする奴が近づくと、
自らはよれよれのふりをしていかにもぐったりしてみせながら、
それで相手を油断させて、少しずつ、少しずつ、
巣から敵を引き離していくのだそうだ。
じいさんにはその小さな光が、けなげでなさけない親鳥
みたいに見えたそうだ。
だからと言うことでもないのだけど、なんとしても部隊と合流しなくては
と思ったそうだ。
狂昂の中に現れた光る鳥。
私はその存在をうそだと思っていたのだ。
しかしここまで想起してこうも思う。
その光る鳥はじいさんの心情に
確かに羽休めていたんでないかと。