小説「ありえない人生」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

「彼はうちで使っている書生でね。」
と言う風に紹介されるのが好きだった。
僕はどういうわけか古い小説に出てくる書生というものが好きである。
書生の実際を僕は良く知らない。
裕福な人の家に男子学生がいそうろうして、勉強する傍ら小間使いとして働く、
なんかそんな感じだとおぼろげに思う。
僕は先生のうちにいそうろうしているわけじゃない。
先生は一言で言うと、「サザエさん」に登場するいささか先生だ。
子どものころから近所に住んでいるベテランの文章書きなのだった。
行くと本を読ませてもらうから、僕は子どものころから先生の家にしょっちゅう出入りしていて、
自分の学業を終えて実家に戻ってきてからは、
なんとなく郵便を出す用事を請け負ったり
先生の苦手なメールのやりとりを引き受けたりするうちに
アシスタントというのかスタッフというのか
まあなんでもやる書生みたいなスタイルが定着してきたので、
先生も僕を「書生」として人に紹介している。
先生も「書生」という響きが好きみたいだった。
「電球を買う人間は電球が欲しいのではない。
暗い場所を照らす灯りが欲しいのだ。」
話すときによって、品物はいろいろ変るんだけど先生はこの話題をよく持ちかけた。
「だからね、電球を作るときに電球のことを考えてちゃいけない。
その電球がどこで使われるのか、どんな人が使うのか、
購買者が抱えている欲求はなんなのか。何が問題なのか。
それを考えないとならいんだな。
ストレスやフラストレーションはいけないものと思うかい?
しかしそれは欲求だよ。希望、HOPEを派生させる起源だよ。
僕は電球を持っていない人間を構想する。
『彼女』が『どんな』電球を欠損しているのかを考える。
希望は無いところからしか生まれない。
何が無いのかを知らないと何に希望を求めればいいか分からない。
だから、なんだね、今。」
このくだりに至ると先生はよく窓を開けて外を見る。
「なんでもあるなあ、今は。なんでも出来るんだなあ、今は。
だってなんにでもなれるんだろ、君。IDとアカウントさえあったら、
どんな人間にだってなれるんだろ。なんだって出来る。
だからこそ君は、なんにも望んじゃいないじゃないか。」
先生はとても悲しそうな顔をする。僕はこんなふうに話す。
「先生僕は遺伝子的にはヘテロ、男に生まれていますがそれは僕の細胞の中にある
たった一本のY染色体によるものなんだそうです。」
うん、という顔をする先生。
「しかしこのY染色体というやつはこの1000年でデータを取ったとしても、
形状が著しく損なわれているんだそうです。小さくなってるんですよ。
どうしてか。
女性はX染色体を二つずつ持っている。二つあるんだから、
何かのアクシデントで欠損が出ても、お互い補い合って
修復することが出来るんです。
でも僕たち男はそうは行かない。Y染色体はもともと一本なんです。
欠損がでても、修復が利かない。
となれば、Y染色体はもともと消滅してしまう前提で
遺伝子の中にプログラムされたんじゃないでしょうか。」
先生は僕の言うことをじっと聞いている。
「今の技術なら、女性の卵細胞を創意工夫して受精卵を形成することは可能だそうです。
Y染色体が消滅しても人間は子孫を残していける。
男っていうのは、人間の技術がそのレベルに達するまでの保険として
あらかじめそういうふうに作られているんじゃないのかなあと思いますよ。」
「君は本当に、夢も希望もないことを言うなあ。」
先生は虚ろな目をそれこそ空っぽにして言うのだ。
「いっぱいいっぱいなんですよ。どこもかしこもありえないくらい一杯になってしまったんです。
僕たちは、世界の充足という結果を見届けて、
自主的にフェイドアウトを受け入れることが出来る最初の世代だと思うんです。」
先生はうーん、と唸るだけだ。何も言わない。
何も無いことからも何かが生まれるのなら、何かが生まれることによって
失われていくものもまたあるのだろう。
僕の消滅を絶望というなら、それによって希望を受け取る誰かが居るのだ、
それは、必ず。
これはこれで美しい世界だと僕は、思うんだけど。