影 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

側仕えのものも先ほどから席を外している対の屋の奥で、先の后は袂を噛みしめんばかりに逡巡していた。
自分の生んだ末娘を、後宮に是非という帝のおっしゃりようが、后の君にはどうにも腹立たしかったのである。先年逝去なさった夫には甥御であられる。ならば所望されているのは近い身内でもあろうに。いかに法に赦すとて、色に好かれて困るというのか、君主であるとはいえあまりにも配慮のないなさりようではないかと、后の君は嘆じられているのである。
先帝の后などといっても、政変があって君の実家はすでに落ちぶれていた。自身の生んだ御子は東宮殿に上がることもできなかった。今更一族に立身の目当てもなく、先代からのお情けのような御賦でどうにか食いつないでいるような口惜しさであり、太后の娘ともあろう身をこのような様にて奥に差し上げることを、なんとも恥じてお出でになる。
それに加えて
后の君は想った。
ほん先だっても帝が同じように対した後衛もない更衣を偏愛なさって、それがために他の後宮の方々が聞くにも浅ましい行いをされたばかりだ。そのようなところに、ましてや削いだ鬢も新しい末の娘を遣る母親があろうか。
「このお話はなんとしてもお断り申し上げねば。」
ふと、本心が后の口をついて出た。
「ならば死になさるぞ。」
飛び上がらんばかりに驚いたのは、一人居る部屋に声が、それも男の声がしたばかりではなかった。
声をしたものは分かっていた。「何が」声をしたのかは分かっていたということである。
しかし「それが何なのか」に至っては、后の君の了見を遥に超えたものであるとしか言いようが無い。
薄暗いきちょうの内の、わだかまった影をさらに煮詰めたような、形を為すか、あるいは為さないか、なんとも得体のしれないものがそこに居たのであった。
「あな、、あな、、」
あまりのことに后の君は家人を呼ぶ気力もなく、幾重の袖を必死に掻き合わせてただただ震えているばかりだった。
「天命の太い脈に、なにやら障りを感じて私は来た。そのものの流れは元から決まっていたものであるのに、どうも杭が一本刺さっているように先へいくことを妨げるものがる。
さては汝れでござったか。
天命の流れは滞らせるわけに行かぬ。汝が杭であるならば、今ここで引き抜いていくまでであるぞ。」
后の君には、その濃い影が恐ろしい勢いで我が身を取り巻いていくのをどうにか知っただけであった。
夕餉を捧げに采女が参じた時にはすでに、いつお亡くなりになったのかも知れぬほど御身は冷たく乾いており、后の君に何が起きたのが、それは誰にも知れぬことだった。。
先帝の四の姫君は、母后の喪が明けた後、滞りなく今上に入内なさったのであった。