安宿の固いベッドにて臨終を待っている彼女は徐々に霞んでいく自らの意識をなぞりながら、こうして終わっていく人生を改めて振り返っていた。
思えば数奇な人生だったかもしれない。
あともう少し、運命のかみ合いが旨く行っていたら彼女は母国の母という立場になっていたのだ。民衆は彼女の夫に帝王の道を希求した。母国の情勢は恐怖政治とプロシアの専制に疲弊して永くなった。停滞した政治への失望から始まった自由な日びへの期待が、彼女の夫の両肩に沈と乗りかかっていたのである。
もしかしていたら、后妃であったかもしれない私。
そのもしかは遂に起こらなくて、彼女と夫はもはや隣国の片田舎にあって安宿を転々と逃れていくだけの毎日であった。
否、その男は結局夫でもなんでもないのである。曲がるべくして曲がったと言うのか、思うとおりに運ばなかった人生は彼女をして最愛の男の妻になることも許さなかったのである。彼らは最期まで、行き場をなくした英雄とその愛人だったのだった。
先ほどまで煩いほど部屋の中を行き戻りしていた男は、耐えられなくなったのか死に行く彼女に一縷の望みを見つけるためなのか、
「薬局に行って来るよ。」
と言い残して出て行った。
いや、しかしそれは幻だったのかもしれない。もう彼女の意識は目の前に愛人が居ても居なくても変化ないほど薄れて弱くなっていた。
体にすっかり馴染んでしまった胸痛は、ありがたいことに臨終の今となっては本人にもそれと分からなない。実際には病巣は痛烈に彼女を攻めている。見込みもなく病んでいると、やがて痛み自体が面倒になるのである。彼女は死を悟ってから、胸の痛みに悩むことを止めてしまっていた。
手の中にあったものをすべて失って、とるべきは互いの手のひらだけとなった時、為すすべなく手に手を取って二人は母国を出奔した。頼って逃げる場所など何処にも無かった。有る金をケチりながら逃げ惑う日びで彼女はだらしなく肺を病んだ。満足に医者にもかかれない以上、彼女の人生はここに決したと言ってよい。
結局私は、ゴシップ好きな市民にお誂えの醜聞を披露しただけだった。
徐々に耐え難い眠気に誘われながら、なおも彼女は考えていた。私は幸福の望んでいただろうか。
否。
疑うことなど、ありはしないのだ。
私は望んでいた。はっきりと。人身の幸福を極めることを求めていて、あの男はそれが叶うと言ったのだ。私は女身として最高の地位に登り、母国の歴史には彼女と夫の名が永遠に刻まれる。歴史を切り開いた英雄と、そのよき理解者として。
だがどうだろう。夕刊配りの少年ですら、母国ではもう彼女の名前を覚えている者とていない。彼女はあっさり失敗したのだ。彼女は、飛べなかったのだ。
ぶすぶすと、感じたことも無いような怒りが臨終の意識の底から湧いてきてぼんやりとした脳裏を染めていった。そう。まさにそうなのだ。彼女は怒りを感じている。私は青男の口車に乗せられて、まんまと国民の恥を被り、今この名も無い田舎で誰にも知られず死んでいこうとしている。
出来るものなら。
彼女は思った。しかし出来るはずもなかった。唇も喉もからからに渇いていた。もう大分まえから水も飲めないくらい夫人は消耗していた。それでも枯れた小さな口唇を、僅かに開いたようであった。意識が真っ黒に塗り込められていくように感じて、彼女は静かに息を引き取った。最期に望んだ願いも果たせずに。
今際の夫人は何を望んだのか。
ぽつりと一言、口に出すことだった。
終焉の地は英国領なので、彼女が一言呟きたかった言葉も英語で示してみようか。
damn it.