小説:「小人」 | 文学ing

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森本湧水(モリモトイズミ)の小説ブログです。

 夜が明けようとしている。

 冷え切った空気は取り散らかされた部屋の中、息を潜めるようにじっと動かない。本棚や、机や布団やタイ土産の木彫りのネコや鯨の骨、鉄鉱石のかけらや香水の瓶や他にも部屋の中にあるものはなんだって、一晩中点けっ放しの灯りをすっかり吸い込んで見る影も無くふやけていた。空気はそれらから染み出した粘質と混ざり合って絨毯の上に黙として横たわりながら、夜が完全に明けるのを待っている。

 彼女の話はこういう状況の中に始まる。

 彼女は最近漸く副業なしで生活をこなしていけるようになったばかりの若いもの書きで、私とは大学で知り合った友人だった。これは彼女がまだ大学に在籍していて、糊の利いた皺ひとつ無い文章を書こうとああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返していた頃に起こったことを、最近になって教えてくれたものである。

 彼女はもともと夜型というより朝型の人間だった。だから積極と消極関係なく勉強していなければならなかった大学受験の頃を除けば、ほぼいつでも深夜0時に床に着いていたようである。学生時代それ以降の時間に連絡は取れなかったし、夜遊びもしたがらなかった。飲み会ではいつも一番に帰った。

 しかし事が起こった日の夜(朝?)、彼女は投稿を予定していた雑誌社の賞に出す文章を締め切り前日になっても仕上げることが出来ず、生まれて初めて徹夜をしてしまった。

 相当神経を使って書いていた。机のサイドテーブルに置かれたポットに入っていたたっぷりのブラックコーヒーは3分の1に減っていた。彼女は一晩中机に座ってワープロを叩き続けていた。一晩掛かったのは、ほぼ2,3行置きに書いては直し、書いては直ししていた為である。

 体の中枢を司る大切な脳は長時間の酷使とモニターが与える光の戦闘機攻撃によって泡の抜けたビールみたいになっていた。それを支える首筋は肩と腰も同様に苦痛を通り越してもはやどんな言葉を持っても慰められない深い悲しみに沈んでいた。そして彼女自身がどうだったかと言うと、そのような身体的ハンガーストライキが全く意に介さないくらい、強烈な失望に泣いていた。

 この期に及んでもまだ文章は完成していなかったのである。彼女は自分に絶望していた。才能の有無を自覚するには充分な時間の空費だった。熱意を持って取り組んだだけにその現実は彼女の疲れ切った骨に鋭い爪を立てて喰いつき、自覚症状があっ為にその傷は忘れがたいほど深く刻まれた。彼女は、絶望していた。

 本当言うと、彼女はそれほど才能に乏しい訳ではなかった。むしろ言葉の選び方や比喩には得がたいような鋭いセンスを持っている。彼女の書く文章は大学生だったその頃すでに不自然でない程度の言葉と言葉の繋がりを身につけていたし。もちろんけして完成された文体とは言えなかったが、そういうことはこれから時間を掛けることによってクリアできるタイプの問題であるはずだった。

 問題は要領が悪いことだった。彼女の為に断っておくが、彼女成績は良かった、頭は悪くないのである。でも手際が悪かった。彼女はいいアイディアを思いつく。文章化する力も持っている。しかしシーンやテーマの扱い方に慣れていなかった。必要でないことに多くの章を割き、大切なシーンがあっという間に終わってしまうということがままあった。そういったことが、彼女の書く物語をアンバランスなものに見せていて、結果として評判も良くないのだ。

 マシンの機能だけがオーバースペックで、いざ乗ってみたらガソリンが入っていないみたいな感じだ。アイディア自体は素晴らしいんだけど、ページに乗っている人々は行き迷い、行き詰まり、何処にも行けなかった。でもこういうことはいずれ経験と伴に克服することが出来る問題だったかもしれないし、何より彼女はまだ充分に若かった。だからここで重要なのは、今彼女が物凄く落ち込んでいるということである。

 彼女は椅子を下げた。席から立った。何故席を立ったかというと髪留めを探すためである。何故髪留めを探すかと言うとそれが3日前に最後に外してから何処かに行っていたからである。でもって今それが必要だからである。何故必要かというと、彼女は局地的に失望を感じると反射的に首周りに掛かってくるブリーチした髪の毛が気になってくるのであった。

 彼女は立ち上がり、ベッドの上や布団、コンビニのべんとうやレポートを書くために借りてきた本3冊やザイエローモンキーのCDやひまわりの柄のゴミ箱を掻き分けて髪留めを探した。

 そしたらベッドの下に小人が居たのである。

 正真正銘の小人だった、と彼女は言った。私は「正真正銘の小人」というのがどんなものか分からない。分からないから、彼女が見た小人が一体どんな「小人」で、彼女が何故一目見てそれを「小人」と断じたのかは、私には分からないのだ。

 でも彼女はそれを小人だと言った。それは小人の大きさをして小人の顔つきをしており、小人の髪型をして小人の靴を履き、小人の上着を着て小人のズボンを履いていた。

 彼女はそれが小人だということは分かったけれど、小人とはこういうことをするものだ、というプロトコルまでは知らなかった。だから彼女は小人の対してどんな風に振舞ったらいいのか分からなかったのである。

 そんなわけで彼女と小人の睨み合いが始まる。

「奴は小人だ。」

 彼女は思った。

「目をそらしたら魔法を掛けられるかもしれないし、ひょっとして冷蔵庫の中から昨日買ったメープルシロップを盗んでいくかもしれない。」

 このような危惧から彼女は小人を睨み続ける以外に選択肢が無かったのである。

 彼女は小人を睨み続けた。

 体を落として左手を脇の横、右手を少し離れたところに置いて顔を斜めにした状態でぎりぎり出せる限りの気合を込めて睨みつけた。小人も負けじと睨んでくる。よく見ると小人の足元に探していた髪留めが落ちている。やっぱり。彼女は思った。

「あいつは髪留めを持っていってしまうつもりだったんだ。」

 と。だから猶のこと睨み続けた。

 そのまま時間が過ぎていく。もっとも睨みつけている彼女には時間の経過など気にならない。彼女と小人の果てしない根競べだけが続いていく。彼女は小人の小さな体を隅から隅までねめつけた。自分の体よりも数十倍大きな生物に睨まれ続けても媚とはびくともしなかった。相変わらず小人特有の睨み方で睨んでくる。彼女は視線で小人を向こう側の壁に押し付けて、小人の形をした穴を開けてやろうと思う。

 苦痛も何も、すべてを超越した時間だけが過ぎていく。彼女はもはや目と体の疲労を忘れて、自分がどうして目の前のそれとにらみ合っているのかも忘れて小人と睨みあっていた。はて、これはなんだったろうかと思いながら小人を睨んでいた。

 その時だった。それまでじっとしていた小人がすっと1cmほど後ろに下がったのだ。彼女は、逃げられる、と思った。しかしベッドの下がから手が出せない。すーっと音もなく、小人は後退していった。

 しかし同時に彼女は奇妙なことに気がついた。小人の大きさがちっとも変らないのである。小人は後ろに遠のいて向こう側の壁に体がくっつき、壁をすり抜けて隣の部屋にまで下がっていく。隣の部屋を過ぎたらそのまた隣の部屋の方にまで下がっていく。しかし大きさが変らないのだ。

 だんだん大きくなっていく、と彼女は思った。背中と額に汗がじっとりと滲んでいくのが感じられた。しかし感じれば感じるほど視線を反らすことが出来ない。汗が彼女の顎を伝う。小人はだんだん巨大になりながら後ろに下がり続ける。彼女はもう失神しそうである。

 でも気付いた時にはもう、床もカーペットも壁も屋根も何もかも無くなっていて、部屋が消えていた。何も無かった。そして目の前には風呂屋の煙突よりも大きくなった小人が彼女を見下ろして佇んでいた。

 その目はもはや小人のそれではなかった、と彼女は言う。彼女が「小人だ」と思った目の表情が消えて、なんにも無くなっていた。死んだ目だ。眼球が腐ってぶよぶよになっていた。黄ばんだ巨大な白目。それかはるか上空から彼女を無言で見下ろしている。

 あ、と頭の中で悲鳴をあげたなり彼女は気を失った。


「それで。」

 私はカウンターでピスタチオの数を数えながら彼女が締めくくるのを待っていた。

「それでお仕舞いなんだけど1つ分かったことがあるの。」

「うん、何?」

 少し黙ってから彼女は言った。

「文章を書くということはベッドの下の小人と睨みあいするようなものだということ。」