ガーン 4月は、足場もない部屋の断捨離で終わった。何度もブックオフに古本をもっていき、本の山も半分に減った。二束三文で買取手続きをするたびに『無職』の項目にチェックする項目があり、自己肯定感がどんどん低下するのを感じた。

退職して2週間ほどは、仕事に追いかけられる不安や焦りもなく、自由感に浸りながらうきうきしていたのを思い出す。しかしそれも長くは続かず・・。

働かないと時間が無駄に早く進む。これを書いている現在、すでに退職してから2カ月近くが経過。働くこと自体、めんどくさくなる気持ちに襲われ、職探しも本気になれないでいる。ハローワークに行くと担当者から「教員はつぶしがきかないんですよ」といわれたが、それもよく分かってきた。60歳以上(シニア)の教育関係の仕事は学習塾ぐらいしかなく、英語や数学が対象。自分は、英語も数学も苦手だし教えられない。結果的に、公立学校の「常勤講師」「非常勤講師」のほうが条件的によいことも分かった。しかし、「講師」の仕事は残念ながらハローワークの紹介に入ってこない。手に職でもない限り、60過ぎると、職種を選ばずいろんな仕事に飛び込む体力も気力もない。そもそもシニア対象の職種そのものが少なく、低賃金が当たり前のようだ。

教員時代は、確かに忙しかった。それでも夜に仕事が終わると、「今日もいろいろあったが頑張った💛」という「充実感」が生まれたものだが、今は、何もしないで一日があっという間に終わる「虚しさ」を感じてしまう。無職の今は、先が見えない生活の不安に悩まされ、教員時代の嫌な体験ばかり思い出す。

酒は飲まないと誓っているし、賭け事等も全くしない。家にいても好きな本を片手に「ボーっ」としていることが多い。仕事を探している現在は、妻や就活中の息子と一緒にいる時間も長くなり、イライラし、夫婦喧嘩や親子喧嘩も増えてきた。家族旅行といっても、先立つ「お金」がないので、難しい。

さらに、教員を含め公務員は退職後、失業保険が給付されないため、収入がゼロになってしまった。高騰している生活費、息子の大学の教育費や税金関係等で貯金通帳から数字がどんどん減っていく。これまで1馬力で働いてきた自分。確かに、退職金はあるがそれを使ってしまったら、本当に後がない。

結局、職探しを通して、家で妻と喧嘩しながら新聞等を読んだり、持て余す時間を毎日ツイートサーフィンしながら怠惰に過ごしている。これが現実だ。情けない😿。

 

 

 離任式前日「本当に辞めるんですか?」とベテランの某先生に聞かれた。「この仕事は忙しく、終わりがないですから、自分で終わりを決めました。これから職探しをします」と答えた。「終わりがない」と言ったら、妙に納得した表情で頷いていた。

確かに、この仕事は

「忙しく量も多い。いくら頑張っても、終わりが見えてこない」

しかし、自分が失業して初めて分かったことは、

「失ったもの」の方が大きいということ。

つまり「社会的なつながり」を失うと、強い不安と孤独感に襲われるという現実だ。今、自分の「居場所」は家族しかなく、それらは個人的な関係で成り立っている。「社会的な関係を保つ居場所」は、完全に消えてしまったのだ。

 

 

 11月ごろに校長先生から、次年度「再任用しますか?」と打診されたとき、(4月から復帰する)同僚A教諭の怖い顔が脳裏を横切った。

前回記したように、某施設の自然観察員の採用結果も、この時点でわからなかったし、「教えるという仕事は自分を高める」ことにつながるので、この仕事が好きである。しかし、次年度も継続してこの学校で仕事を続ければ、4月以降復帰する特学担任同僚A教諭との「関係性」に、再び苦しみ続けることが確実なのだ。毎日自分を殺して、A教諭の口調に耐えて行動する、それが一番嫌だから断ってしまったのが本心?なのかもしれない。

(一昨年度、ライン好きのA教諭からパワハラ的行為を受けたことは)私の様子がいつもと比べ「おかしい」ことを案じていた妻と、市の教育委員会に栄転された教頭先生だけにしか話していないのだ)

 

一昨年度4月スタートの段階から、年下のA教諭が、自分に不安をぶつけてきて、事あるたびに「それでも教師ですか!」と生徒や職員が見ている中で、私(自閉情緒担任・コーディネーター)を何度も罵倒してきた。さらに、自分が強い態度で返してこないことをいいことに、「(特学主任なんだから)あれをしてください!これをしてください!」と要求する。(自分自身、この学校での特学主任も、担任も初めてだった。妻のこともあるため副担を希望したが、前年度の特学主任(再任用)が退職したため、ブラック校長に突然命じられ、不安の中で行うことになったのだ。長い経験があっても、2年間のブランクがある。学校によって進め方も異なるため、前年度に倣い進めたつもりだった。

自分の力量のなさが要因なのか?授業開きにおいては、教職員から質問攻めや要求がどんどん出た。これが特学1年目の4月。死月だ。

特別支援コーディネーターの仕事は、通常学級にいる発達障害の生徒のことも考えていかなければならないため、本校のように大規模学校では、人数の多い自閉・情緒担任を一人で兼ねるのは正直きつかった。だが、それ以上に大変だったのは、ベテランの域の(仲がよいとは言えない)特担同士をまとめなければならないことだった。

自分に対する罵りになるのが見えているのに、死月当初からブラック校長に「特担会を毎回開け!」と命令口調で言われた。しかし、特担会を開くたびに支配的なA教諭から攻撃を受けた。方向性をまとめられないと、A教諭だけでなくブラック校長にも注意され、ますます自己肯定感がもてなくなった。

(知的や自閉・情緒以外の担任は、在籍生徒も少なく、一人しかいない学級もある。そのようなクラス担任を希望する中堅教師がいるのも事実。つまり、教員組織は、仕事における教員同士の負担のバランスが偏っているのだ。在籍生徒も少なく、持ち時間のゆとりがあるベテラン教員をコーディネーターに選出したほうがバランスが取れるのに・・)

 

 

経験者の自分が不安を見せれば、初めて持つA教諭はもっと不安になると感じ、笑顔で優しく接していたつもりだった。

「A教諭も自分も、前の年度は同じ学年所属で、副担任。職員席も隣同士。関係も悪くなく、話をすると突っ込んでくるけど、怖い表情で不満をぶつけてくることはなかったのに・・」

当時はそう感じたりもしたが、自己解除して隙を見せてしまったのかもしれない。人間とはわからないものだ。

彼女はスマホやタブレットが得意で、そばに職員がいるにもかかわらず、手元のスマホ(ライン)で職員たちと連絡を取り合っていることも多かった。私が「ガラパゴス携帯を長年使用していたため、スマホやライン等もあまり触れたことがないのでできない」ことを話すととても驚いていた。

 

 

(当時の自分はスマホもラインも使えなかった。しかし、趣味の一環として昆虫「ブログ」を書いているということは、定年退職まで同僚の教員にも、生徒にも一切秘密にしていた。当然、昆虫好きのことも公にしていなかった)

 

「パワハラ的行為とは上司からの罵倒のみを指すもの」とばかり思いこんでいたから、自分よりも下の世代のA教諭から罵倒されたり、怖い表情で睨んでくること等が「パワハラ的行為」と認めたくなかった。家に帰ると、鬱的になり苦悩し続ける自分を知り、妻も不安定になった。神経過敏な妻にも機関銃のように怖い表情で怒鳴られる。シンクロする恐怖を感じ、当時は家でも学校でも「ごめんなさい」と謝るしかなかった。逃げ出すこともできなかった。

その後も、A教諭の横柄な態度は直らなかった。

ついに、自分の我慢も限界にきて、他の教員が見ている前で、衝動的に教頭先生に「帰ります!」といって、年休簿に記入しその場から帰宅した。

心配した教頭先生が家に電話をよこし、気持ちが落ち着いたその日の夕方、二人だけの部屋でこれまでのいきさつを伝えたが、その後A教諭とは何の進展もなくスルー。謝罪もないどころか、A教諭自身、自分の非を認めようともしていなかった。心配して電話をよこしてくれた教頭先生に正直に話した後は、校長自身もメモ等の報告を受けているはずだが、校長からは何の返答もなかった。

 

しかし、退職2年前に味わったこの辛い体験を通し、再びヒューレン先生の本を読みだした。クリーニングを再開する過程で、自分の気持ちも前向きになってきたのを感じた。クリーニング継続の重要性について心の底から感じるようにもなった。

 

 

『ホ・オポノポノをしていなかったら、今ごろ命はなかった』

 

 

これはヒューレン先生の談話である。

ヒューレン先生でさえ、自分が自分でいないこと、自分を見失っていることの体験や経験があったのだ。

談話は次の言葉で閉じる。

『本当の自分を見失っているとき、そこには命はないんだよ。そこで呼吸することもない。光もない。真っ暗なんだ』

まさしく、当時の自分はそのような心的状態であった。

 

(後日、A教諭が腰の手術のため、11月ごろから今年の3月末まで病休を取った。A教諭のクラスは、若い講師と二人担任制だったので、講師の先生が最後まで支援してくれた。クリーニングを常に行う必要性を感じ、全体も良い方向へと進んでいくのを感じた) 

ネイティブアメリカンのように生きたい (参照)

 

 

パワハラ的行為を上司に話しても、余裕がないくらい忙しく、ただ聞き取りをするだけで完結するのは、職員室カーストと称し「教員社会の闇」の一つとなっている。つまり、同調圧力が強いほど組織内においては、それを醸し出す人間に対する「自浄作用」が効果的に働かないということでもある。

期待などしていなかったが、一言でいいから「すみませんでした」と謝罪してほしかった。それができないのなら、(昨年の3月「校長室」という空間でパワハラ的行為を受けたことを勇気を出して伝えた時)こう言ってくれたら救われたのに。

 

「心に深い傷をつけてしまい申し訳ない。病休治療中のA教諭からも君に「ごめんなさい」と伝えて下さいと、ことづけられていたよ」

 

ブラック校長との最後の面談の校長室。

自分たち以外誰もいない空間・時間。当事者が病休中なのだから、代わりにブラック校長に、嘘でもいいからそう言ってほしかった(「校長」という教職員のトップの言葉は、ただの言葉ではないのだ泣

退職後にまた、「転んだ傷」をブログに書くこともなかったと思う。いくらなんでも、

 

「そんなこと知っていた。

三度はAに注意したんだが変わらなかったようだな。

本人も自覚がないようだった」

 

それで終わりはないだろう。当時、自分がどんな気持ちでこの言葉を反復したかわからないだろうな。年度最後まで休まず、まじめに働いた部下に、職場の最高権力者が言う言葉ではないと思う泣 

結局、ブラック校長は何事もなかったように去っていった。スポーツの強いどこかの私立高の広報をしている?という噂を同僚から聞いたような気もするが、ブラックに日焼けをしながら釣り?でもしているのかもしれない。

今年3月で教員を退職した自分にとっては、過去の人となった。このネガティブ体験を、今後の生き方に活かさないとだめだ。教員社会におけるパワハラは後を絶たず、死を招くのだから・・。

 

 

 

退職して無職になった今、自分が思うことは、「過去は一生変えられない」ということ。だからこそ、自分はこの体験の一部を自分の今後に役立てていくために記した。

今思うと、(4月から復帰する)同僚A教諭との関係など気にしなければよかったのに、これから起きてしまうネガティブ・不安感に襲われてしまった。これは自分の心の弱さかもしれない。記憶はネガティブである。記憶に従うか、神聖なるインスピレーションに従うか、何度もクリーニングの重要性をヒューレン先生は伝えているのに、当時の自分は記憶に従う道を選んでしまった。

結果、自然観察の採用も不採用。

再任用申し込み締め切りも過ぎてしまい、「無職」のまま現在に至り、親子して就活の「負の側面」に苦しんでいる。

何をやってもなぜか?うまくいかない泥沼の状態。

(人間は、人生における判断を誤ることもある。過去は変えられない今となっては、この無職の期間が「良かった」といえるようにしていきたいものである)

 

 

「これは記憶の再生だ。反省はしても後悔だけはしたくない。しっかりとクリーニングしないと何度でも、同じような事象が起きるのだ。やるべきことはただ一つ、パワハラ的行為を受けたその瞬間、瞬間、隅々までしっかり『クリーニングする』ことだ」

 

「オポノポノに出逢って、クリーニングをしっかり継続していれば、人との関係性もバランスがとれていたのに‥。

自分の中に湧き上がる恐怖を伴う「負の記憶」は、ただクリーニングするチャンスをいろいろな形で与えられているだけなんだ。「クリーニングしなければ消えないよ」と潜在意識が教えているだけなんだ

 

残念ながら、それに気づいたのは「無職」になって、自分を見つめることができるようになってからだった。

もう、過ぎ去った過去を悔やんでもしょうがない。これも学びの一つとしてクリーニングいこう。「学びの機会を与えられた」と感謝し、自分が特に悩んだ人間関係等を課題にしながら学んでいこう。ブラックな出来事も、時間の経過とともに学びとなっていく。「愛しています」(^^)/

 

 

 

 

 長い間「教師」という職業を通して「自分自身を創り上げてきた事実」と比べれば、パワハラ的行為の1つや2つで悩み、再就職の機会を逃してしまったことは、「本当にバカだったな泣」と今は感じている。

 

人間、人生の「選択」はできても、「選択の結果」までは考えられないことに体験しながらようやく気付いた。

短絡的な考えで選択し決断した自分。本当に「バカ」だったと思いながら反省している。家族に必要のない「不安」を与えている自分。本当にごめんなさい。

無職になった今、自分が教員人生で体験したたくさんの「闇」を仕方がないことだと諦めて、あの世にまで持っていくことはできないし、沈黙が今後よい結果をもたらすとは限らない。この辛い経験から何かを学んでいこうと思う。

 

「痛みはね、いつでも全部自分の中にある。外にはないんだよ」

 

ヒューレン先生のつぶやきには、とても深い真理が隠されている。いじめも、パワハラも、失業も、無職も、就活が親子してうまくいかないのも、就活だけでなく、趣味の虫活にまで力が入らないのも、全て「自分の内側」にある。そして、それを「しっかりクリーニングしなさい」とウニヒピリ(潜在意識)が自分のウハネ(表面意識)に訴えているのだ。

自分にできること、それはクリーニング

誰に頼らなくてもその痛みを手放すことができる。

「アイスブルー」「アイスブルー」「アイスブルー」そして、クリーニングの必要性と大切さを教えるために現れた不合理なる現象と体験に「ありがとう」「愛しています」と答えていきたい。

 

平和は「私」から始まる。

  

 

自分の気持ちはツイッターにて日々更新している。

再就職が決まらないと、足元が落ち着かないのか大好きな「昆虫観察」もやる気が全然起きない。

しかし、これもクリーニング。

 

(4月初旬、太白山自然観察の森で「ヒメギフチョウ」の観察に成功したが、以前に知り合った自然観察員の方が当日不在であり、採用結果を報告できなかった。

「不採用でした」

と報告しても、お互いいい気持にはならないし、不在であって逆によかったのかもと思う)

 

5月の初めは、家族でドライブし、数年ぶりに「ユキグニコルリクワガタ」の基産地に赴いた。「今年はブナの芽吹きも早い」と判断し、10日ほど早く現地に赴いたのだが、タイミングが早すぎたのか、虫そのものがほとんど現れず、結果的に丸坊主に終わった。

 

今回の記事は、4月分の昆虫観察結果として、「ヒメギフチョウ」の観察の画像を紹介しながら、「無職の今」をつぶやいてみた。初めてカタクリの花の蜜を吸う「ヒメギフチョウ」♀個体の撮影に成功した。翅がボロボロになり、命が終わりそうな♂も撮影できた。

 

      令和5年5月23日(火)夜記す。平和(^^)/