☀早朝、通勤電車に乗る。
ふと車内を見渡す。
若者も、サラリーマンも、女性も、中年も……。
スマホ、スマホ、スマホ。
もちろん、全員がそうだというわけではない。
それでも、以前に比べると、ずいぶん多くなったように感じる。
私はその光景を見て、ときどき思う。
「みんな、いったい何をそんなに見ているのだろう」
そして、少し怖くなる。
まるで、小さな画面に吸い込まれているように見えるからだ。
いや、「憑かれている」と言ったほうが近いのかもしれない。
……などと言っている私自身も、今ではスマホを持っている。
だから、人のことを笑うことはできない。
むしろ私は、スマホを持っていなかった時代を知っているからこそ、この変化が見えるのかもしれない。
私は長い間、スマホを持っていなかった。
昔のPHSや携帯電話の時代なら、電話やメールが来れば見る。
用事があれば使う。
そんな感覚だった。
ところが、スマートフォンは少し違う。
何かが来たから見るのではない。
何も来ていなくても見る。
片手に持ち、そのまま車内に入り、ずっと画面を眺めながら目的地まで歩きスマホ。
画面から目を離さないからなのか?
いつの間にか今の人たちはみんながみんが前かがみになっているように思う。
(自分は若い頃から猫背で前かがみ(笑)だが)
SNSを見る。
ニュースを見る。
検索する。
そして、またSNSを見る。
特別な用事がなくても、指を動かせば、次から次へと何かが現れる。
「暇だから見る」。
そして、見るから暇がなくなる。
考えてみれば、不思議なことだ。
昔なら「何もない時間」だったはずの時間が、今ではスマホによって埋められていく。
電車の中には、
「携帯電話での通話はご遠慮ください」
という表示がある。
昔から、車内で大声で電話をすることはマナー違反とされてきた。
ところが今はどうだろう。
通話している人は少ない。
その代わり、スマホを見ている人はとても多い。
「話すな」とは書いてある。
けれど、
「スマホを見るな」とは書いていない。
だから、車内は静かだ。
誰も大声で話していない。
それなのに、何百人もの人が、それぞれの小さな画面の中にいる。
そしてみんな無表情、無感動。
人はたくさんいる。
学生の多くは白いワイヤレスイヤホンもしている。(自分は初めてこの白いイヤホンをしている女子高生を電車で見た時、障害のある方には失礼かもしれないが、「聴覚障害の学生さんかな?」と思ったほどだ。障害のある生徒たちと長年接していた自分はそう感じてしまった)
一人ひとりの意識は、それぞれ別の世界にいる。
隣に座っている人より、遠くにいる誰か。
目の前の窓の外より、画面の中の情報。
身体は同じ電車に乗っているのに、意識は別の場所にある。
なんとも不思議な時代になったものだと思う。
電車の中には年配の人も見る。
昔と異なり、現在は自分よりも年配のシニアの男女も朝から通勤する人が増加している。
第二の職場に向かうのだろうか?。
彼らはスマホを持っているのか、持っていないのかは判断できない。
けれど、周囲の人たちがみんなスマホを操作している中で、何も持たずに座っている人を見ると、
どこか肩身が狭そうに見えることがある。
もちろん、その人自身は何も気にしていないのかもしれない。
私の見方がそう感じさせているだけかもしれない。
それでも私は、気になる。
もし、
「自分だけ取り残されているのではないか?」
と感じる人がいるのだとしたら、これは大きな問題ではないだろうか。
スマホは、いつの間にか単なる便利な道具ではなくなった。
電車の情報を見る。
地図を見る。
店を探す。
予約する。
買い物をする。
家族と連絡する。
学校や仕事の情報を見る。
仕事を探す。
さまざまな情報を得る。
今では、生活のいろいろな入口がスマホの中にある。
かつては、
「持っていると便利」
だったものが、
「持っていないと不便」
になった。
さらに、
「持っていないと社会生活が難しい」
場面まで増えている。
これは、持っている人が悪いのではない。
社会そのものが、そう変わってきたのだ。
スマホ一台の中には、電話がある。
カメラがある。
時計がある。
地図がある。
辞書がある。
新聞やニュースがある。
音楽がある。
買い物もできる。
銀行のことまでできる。
昔なら何台もの機械や道具が必要だったものが、一つの小さな画面に入っている。
これは、本当にすごいことだ。
だから私は、スマホを否定したいわけではない。
便利になったことも認めたい。
ただ、
便利になったことと、豊かになったことは、本当に同じなのだろうか。
そこを考えてしまう。
例えば、コンビニのスマホ用無人レジもスマホを照らすだけであっという間に終わる。そこには定員さんとの会話もない。『ありがとう』の声もない。笑顔もない。みんな無表情だ。買い物ってこんなに虚しいものだったのだろうか?
スマホは、人と人が通信する。
これは間違いない。
遠くにいる家族と話せる。
友人と連絡できる。
昔の知人と再びつながることもできる。
知らない人とも情報を共有できる。
だから、スマホを「人を孤独にする道具」とだけ考えるのも違う。
けれど、
通信できることと、人間としてつながっていることは同じなのだろうか。
「いいね」が来る。
通知が来る。
メッセージが来る。
それで、
「自分は誰かとつながっている」
と感じる。
でも、本当に心がつながっているのだろうか。
遠くにいる人の投稿には反応する。
その一方で、隣にいる人には声をかけない。
そんなことが起きてはいないだろうか。
ここで、もう一つ気になることがある。
スマホの世界は、自分である程度コントロールできる。
嫌なら閉じる。
興味がなければ飛ばす。
見たいものを選ぶ。
検索すれば答えが出てくる。
次の動画も出てくる。
自分の好きな世界を作りやすい。
ところが、「現実」は違う。
目の前にいる人は、自分の思い通りにはならない。
子どももそうだ。
家族もそうだ。
友人もそうだ。
知らない人もそうだ。
自然は、もっとそうだ。
そして、生き物はさらにそうだ。
鳥は、こちらが見たいと思ったときに飛んでくるとは限らない。
猫は、こちらの都合で甘えてくれるわけではない。
カエルは突然跳ぶ。
蝶は突然飛び去る。
甲虫は葉の裏に隠れる。
こちらが一時間待っても、何も現れないことだってある。
でも、それが「現実」なのだ。
私は昆虫を観察する。
虫にはスマホがない。
Wi-Fiもない。
LINEもしない。
もちろん、「既読」もつかない。
だから、こちらが待つしかない。
すると、少しずつ分かってくる。
生き物を見るということは、
自分の都合を押しつけないこと
なのだ。
「今日はこの虫を見たい」
と思っても、見られるとは限らない。
「こういう動きをするはずだ」
と思っても、違う動きをする。
「この子はこういう虫だ」
と決めつけた瞬間に、見えなくなるものもある。
だから、
急がず、決めつけず、静かに見る。
これは昆虫観察だけの言葉ではないと思う。
教育にも通じる。
人間を見るときにも通じる。
そして、自分自身を見るときにも通じる。
私は長い間、中学校教員をしてきた。
今になって思う。
生徒を見ることと、生き物を見ることは、案外似ている。
すぐに答えを出してはいけない。
「この生徒はこうだ」と決めつけてはいけない。
しばらく見る。
待つ。
変化を見る。
その生徒の中で何が起きているのかを考える。
人間は、検索すれば答えが出てくる存在ではない。
生徒もそうだ。
大人もそうだ。
自分自身だって、そうだ。
だから教育には、
「待つ時間」
が必要なのだと思う。
では、ここまでスマホ社会になったのは、スマホ会社の策略なのだろうか。
私は、すべてを「企業の陰謀」と考えるつもりはない。
企業には企業の商売がある。
新しい機種を出す。
買い替えを促す。
通信会社も乗り換えや端末購入を促す。
SNSや動画サービスも、利用してもらうことによって成り立っている。
そこには当然、経済的な仕組みがある。
私たち自身も、便利さを求めてきた。
友達が高いAiphone持っていればみんなAiphoneを購入する。
家族一人に一台みんな高いスマホを購入する。
学校でも使う。
仕事でも使う。
社会全体がスマホを前提に動くようになった。
その結果、
「スマホを持たない自由」まで持ちにくくなってしまったのではないか。
私は、そこに一番大きな問題を感じる。
もちろん、ある日突然こうなったわけではない。
2000年代までは、携帯電話は主に電話やメールの道具だった。
2007年にiPhoneが登場し、スマートフォンが「電話だけではない端末」として注目されるようになった。
2010年代にはSNSや動画、さまざまなアプリが急速に広がった。
そして、
「連絡するための電話」
から、
「世界を見るための窓」
へ。
さらに、
「人間関係の入口」
へ。
「生活の入口」
へ。
スマホの役割はどんどん大きくなっていった。
今では、
「スマホがないと生きていけない」
というより、
「スマホがないと、今の社会で生活することがどんどん難しくなっている」
というほうが正確なのだろう。
個人がスマホを使う時代から、
社会そのものがスマホを前提として動く時代
になったのである。
仙台のような都市でも、電車に乗ればスマホを見ている人が多い。
では、東京はどうなのだろう。
世界でも有数の巨大都市に、毎日、ものすごい数の人が集まる。
電車の中にも、人、人、人。
そして、その一人ひとりが小さな画面を見ている。
考えてみると、不思議な光景だ。
これほど多くの人が同じ空間にいるのに、一人ひとりが小さな画面の中にいる。
人間同士の距離は近い。
しかし、意識は遠くへ行っている。
隣の人より、画面の向こうの誰か。
目の前の世界より、手のひらの世界。
これは、いったい何なのだろう。
スマホを見ている人も、きっといろいろなことを感じている。
寂しいのかもしれない。
暇なのかもしれない。
不安なのかもしれない。
誰かとつながっていたいのかもしれない。
周囲の人を意識したくないのかもしれない。
現実から少し離れたいのかもしれない。
もちろん、それぞれ理由は違うだろう。
だから私は、
「みんなスマホばかり見ている」
と笑うことはできない。
もしかすると、
スマホを見ているその人自身が、何かから自分を守っているのかもしれない。
そう考えると、見え方が変わってくる。
私は、ここが一番気になる。
昔は、電車に乗っても、何もすることがなかった。
窓の外を見る。
ぼんやりする。
人を見る。
考え事をする。
眠る。
何も起こらない。
でも、その「何も起こらない時間」の中で、人は何かを考えていたのではないだろうか。
退屈だからこそ、空想した。
暇だからこそ、考えた。
何もないからこそ、自分の心の中を見た。
今は、その隙間にすぐスマホが入ってくる。
暇になった瞬間、画面を見る。
だから私は思う。
私たちは、「何も起こらない時間に耐える力」を少しずつ失っているのではないだろうか。
もしそうなら、これは「教育」にも関係してくる。
「教育」とは、知識を教えることだけではない。
人と出会うこと。
思い通りにならないことを経験すること。
失敗すること。
気まずくなること。
仲直りすること。
待つこと。
考えること。
自分と違う人を見ること。
そして、自分自身を見ること。
これらは、画面の中だけでは経験しにくい。
もちろん、デジタルにも素晴らしい学びがある。
だから私は、
「スマホを捨てろ」
と言いたいのではない。
ただ、
画面の中で得られる世界と、目の前にある世界は、同じではない。
それだけは忘れたくない。
スマホは世界を小さくした。
地球の裏側の情報まで、手のひらに入る。
これは、本当にすごい。
けれど私は思う。
本当の世界は、手のひらには収まらない。
目の前にいる人。
子どもの表情。
高齢者の沈黙。
鳥の声。
猫の動き。
風の音。
雨の匂い。
木々の揺れ。
道端の小さな虫。
そして、自分の心の奥。
そういうものは、検索結果には出てこない。
「いいね」の数でも測れない。
画面をどれだけ眺めても、分からないことがある。
だからこそ、
目の前を見ることが必要なのだ。
だから私は求めたい。
スマホを捨てることではない。
スマホを敵にすることでもない。
ただ、ときどき、
画面を閉じてほしい。
目の前を見てほしい。
隣にいる人を見てほしい。
子どもを見てほしい。
高齢者を見てほしい。
生き物を見てほしい。
そして、
自分自身を見てほしい。
スマホが私たちを世界とつないでくれることは確かだ。
しかし、
通信できることと、つながっていることは同じではない。
たくさんの人と通信できても、孤独なことはある。
たくさんの情報を知っていても、自分のことを知らないことはある。
世界中の出来事を見ていても、
目の前の一人を見ていないことだってある。
私は、それが怖い。
そして、同時に、自分自身にも問いかけたい。
スマホを見ているとき、
私は何を見ているのだろう。
そして、
そのとき私は、何を見ないようにしているのだろう。
そんなことを考えながら、私は今日も生き物を見る。
昆虫を見る。
鳥を見る。
植物を見る。
自然を見る。
そこには、通知もない。
「いいね」もない。
検索結果もない。
ただ、生き物が生きている。
蝶が飛ぶ。
鳥が鳴く。
カエルが跳ぶ。
甲虫が葉の上を歩く。
こちらの都合など、お構いなしだ。
だから私は待つ。
急がず、
決めつけず、
静かに見る。
すると、不思議なことに、
生き物を見ているはずなのに、
自分自身の生き方まで見えてくる。
人間は便利になった。
情報も増えた。
世界は手のひらに入った。
それでも、
人間は、人間を見ることを忘れてはいけないのではないか。
生き物を見ることを忘れてはいけないのではないか。
そして、
自分自身を見ることを忘れてはいけないのではないか。
私は、そう思う。
いや、
そうであってほしいと、求め、訴えたい。
小さな画面を閉じたとき、
そこには何もないのではない。
そこには、
本当の世界が待っている。
人間がいる。
生き物がいる。
自然がある。
そして、自分自身がいる。
本当の世界は、
手のひらには収まらない。
だから私は今日も、
スマホをカバンにしまって、
生き物を見る。
急がず、
決めつけず、
静かに🍀
私の平和🍓
2026.9.16( 水 )🍓
帰りの地下鉄で、マイブログを確認していたら、仙台駅を通り過ぎてしまった間抜けな自分です。(笑)


















