「自分は何のために生きるのか」

この問いは、私にとって最近始まったものではない。

振り返れば、小学生のころからずっと抱えていた問いだった。

幼い頃は、ゲームもなかったので家で遊ぶこともなく、私は虫取り網を持ってガサガサをしたり、畑や野山を歩いていた。ザリガニや水生昆虫、ゴミムシや、チョウやトンボ等を追いかけながら、心のどこかで不思議に思っていた。

「なぜ生きているのだろう」

人間だけではない。

蚊は何のために生きるのか。
カブトムシは何のために生きるのか。
セミは何のために短い命を生きるのか。

答えは見つからなかった。

それでも昆虫や生き物への興味が消えることはなかった。

やがて大人になり、様々な仕事を体験した後、人の縁もあり、教員として働くようになった。教員人生の中で36歳で結婚し、息子も生まれた。

忙しい毎日の中で昆虫から離れる時期もあったが、息子の成長とともに昆虫観察を本格的に再開した。親子で野山を歩き、同じ虫を見つめた時間は、私にとってかけがえのない思い出である。

しかし、時は流れる。

息子も成人し25歳、社会人となって三年目を迎えた。彼の趣味は私の苦手?な釣りなので今では一緒に観察に出かけることもほとんどなくなった。

 

私は変わらず昆虫観察や自然観察を趣味にしている。

観察しながら出会う虫たちを、以前よりも長く見つめるようになった。

土の中から現れたばかりのセミ。

羽を広げて飛び立つチョウ。

傷つき、弱って動けなくなった甲虫。

老いたように動きの鈍くなったカブトムシ。

道端で静かに命を終えた虫たち。

そこには生があり、老いがあり、病があり、死があった。

私は虫たちの生老病死を見ていた。

そして気づけば、その姿に人間の人生を重ねていた。

今年の5月と7月、私は二度、意識を失いかけた。

最初は無呼吸症候群ではないかと言われた。

もちろん医学的な原因は大切である。

しかし私は、この出来事に別の意味も感じている。

人生には、ときどき立ち止まって考えなさいと言われているような出来事がある。

残された時間をどう生きるのか。

何を大切にして生きるのか。

そんなことを改めて考えるようになった。

そして63歳になった今、ようやく一つのことに気づいた。

私は昆虫を見ていたのではない。

昆虫採集をしていたのでもない。

昆虫を通して、生きることそのものを問い続けていたのだ。

言い換えれば、昆虫を通して哲学していたのである。

人は何のために生きるのか。

虫は何のために生きるのか。

正直に言えば、今も答えは分からない。

だが以前より一つだけ分かったことがある。

答えを持つことよりも、問い続けることの方が大切なのかもしれないということだ。

今日も散歩の途中で、小さな虫に出会う。

その小さな命は、また静かに私へ問いを返してくる。

「あなたは、何のために生きるのですか」と。

私の平和🍓

 

 

2026.8.5(水) ようやく東北地方も梅雨明けした。(^^)/