深海輪舞曲~rondo in the abyss~ -29ページ目

深海輪舞曲~rondo in the abyss~

乳がんを契機にあれこれ気づいたこと
乳がんは、恐い病気じゃない
こうすれば「よりよく」生きられる
「キャンサーギフト」ってあるんだな~…って♪

又此宮に怪異の事あり
大崎信守の手記に曰く――

承應三年六月二十日於伊雑宮生霊椿、二枝相交、其形如華表、里俗あやしみ見て、申司中大司精長より、秋九月一日経次第奏聞の処に、無御崇敬之故か、同二十日先帝の御事あり
(出典:三重県郷土資料叢書 第68集「志摩の国基礎資料 志摩郡史(鳥羽誌) 志摩国旧地考」著者 曽我部市太 井阪徳辰 発行者 三重県郷土資料刊行会)

【シロウト意訳】

華表→二つの意味があるようですが
    ここでは鳥居を採用
里俗→地方の風習、習わし
    地元の里の人々…と推測
申司中大司精長→ワカリマテン(´Д⊂
        神社関係の偉い人?
奏聞→天皇に申し上げること
御崇敬→仏事の御崇敬
      (ごそうきょう)かな?
御事→貴人を敬って
     その誕生や死を婉曲にいう


1654年年6月20日伊雑宮にて
「生霊椿」が二枝相交わって
その形がまるで鳥居のようだと
地元の人たちが奇妙に思っていた
「申司中大司精長」によると
秋9月1日の奏聞によれば
「御崇敬」を催さなかったためか
同月20日に
先帝がお亡くなりになられた


【あれこれ考察】

伊雑宮の椿が
鳥居の形みたいになって騒いでいたら
実は、その日先帝が
お亡くなりになっていた
…みたいな。
前回の記事でもそうですが
天皇家に何か変化があると
その予兆などが
何かしらのかたちで伊雑宮に現れる
という感じですね

…まだ続きます。
又此宮に怪異の事あり
大崎信守の手記に曰く――

承應二年五月二十三日午の刻(二三一三)、伊雑宮瑞垣御門南方へ傾倒す、同六月二十二日の夜子刻、伊雑宮の御殿炎上のやうに見え候故、禰宜等驚きかけ集り候処に、御殿は無相違候故、不審ながら皆帰館仕候処に、又炎上の様に見へ無何事、一夜の中両三度、其夜かけ集りし禰宜地下人等、大勢に今居申候、同月二十三日午の刻、禁裏延焼之儀あり。
(出典:三重県郷土資料叢書 第68集「志摩の国基礎資料 志摩郡史(鳥羽誌) 志摩国旧地考」著者 曽我部市太 井阪徳辰 発行者 三重県郷土資料刊行会)

【シロウト意訳】

承応二年→1653年ですね
午の刻→11時から13時
禁裏→天皇がつねに
    居住しているところ。
    内裏。

1653年5月23日のお昼頃
伊雑宮御殿の垣根&門が
南の方へ傾いた
同年6月22日の深夜0時頃
御殿が炎上してるように見えたので
禰宜(神職さん)等は驚いて
急ぎ集まってきたのだが…
炎上していると思った御殿は
特に異常なし
おかしいな、と思いつつも
帰宅しようとしたところ
また炎上してるように見えた
何これ?!何なん?!
一夜のうち3回もそんな感じで
神職さんや地元民たちは
集まったり解散したり…

そして翌日23日のお昼
内裏が延焼する
という出来事がありました。

【あれこれ考察】

「瑞垣御門南方へ傾倒す」は
「禁裏延焼之儀」を1ヶ月も前から
予兆していた、ってことでしょうか

承応という時代は1652から1654年までの
3年しか続かなかったのですね
この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇
江戸幕府将軍は徳川家綱
「承応の変」という事件も起こり
幕府はそれまでの武断政治から
文治政治へ政治方針を転換するなど
日本の社会でも大きな動きが
あったのですね(詳細はwiki)

江戸からも京都からも離れた志摩の国で
伊雑宮は
禁裏に「変」を告げていたのでしょうか…


これが「鳥羽誌」に登場する
「伊雑宮の怪異」の第1エピソード
衝撃度としては、けっこうマイルドかも
私的には、エピソード3、4、5、7が
かなり衝撃的でした

だって、明らかに宇宙(ry


…また書きますね♪

三重県志摩市に、「伊雑宮」という神社があります

wikiはこちら

伊雑宮と書いて「いぞうぐう」
または「いざわのみや」
伊勢神宮皇大神宮(内宮)の別宮であり
古くから皇大神宮の遙宮(とおのみや)
と称せられています

伊雑宮に関する古い記述が
「志摩の国基礎資料 
 志摩郡史(鳥羽誌) 志摩国旧地考」
という郷土史の一部に登場するのですが

そこで、私…

奇妙な記述を見つけてしまったんです

それは、同書中「鳥羽誌」の「磯部」項にあります。

伊雑宮 上の郷に在り、今いざふの宮と呼べども、古はいさはの宮と訓(よ)めり、一の宮、磯部宮の別称あり、皇太神宮別宮(荒祭宮、月読宮、月読荒御魂社、伊佐奈岐宮、伊佐奈彌宮、瀧原宮、瀧原並宮、風日祈宮及び伊雑宮)の一にして、皇太神宮儀式帳に「伊雑宮一院、在志摩国答志郡伊雑村、太神宮以南相去八十三里、称天照太神遥宮、御形鏡座」、太神宮式に「伊雑宮一座、太神遥宮、在志摩答志郡」、建久内宮年中行事伊雑宮祭禮詔刀に「志摩国答志郡伊雑村乃下津石根仁大宮柱太敷立天」、倭姫命世記に「其處伊佐波登美之神宮造奉、皇太神宮爲攝宮伊雑宮是也」、延喜神名式に「志摩国答志郡粟島座伊射波神社二座大並」、と記せり、而して神名式に二座とあるは国司より祭らるゝ時は玉柱屋姫命を加ふるを以て也。

書き出しは無難な感じで始まる「磯部」の項を
読み進めていくと…

わかりますか?

又此宮に怪異の事あり

…。(;゚д゚)ゴクリ…

断わっておきますが、
私の創作ではありません。

【出典】
三重県郷土資料叢書 第68集
「志摩の国基礎資料志摩郡史(鳥羽誌)
 志摩国旧地考」
著者 曽我部市太 井阪徳辰
発行者 三重県郷土資料刊行会


個人的には
けっこう衝撃的な内容でした

記されている「怪異」は、9つ

ひとつひとつ、挙げていこうと思います