又此宮に怪異の事あり
大崎信守の手記に曰く――
大崎信守の手記に曰く――
承應二年五月二十三日午の刻(二三一三)、伊雑宮瑞垣御門南方へ傾倒す、同六月二十二日の夜子刻、伊雑宮の御殿炎上のやうに見え候故、禰宜等驚きかけ集り候処に、御殿は無相違候故、不審ながら皆帰館仕候処に、又炎上の様に見へ無何事、一夜の中両三度、其夜かけ集りし禰宜地下人等、大勢に今居申候、同月二十三日午の刻、禁裏延焼之儀あり。
(出典:三重県郷土資料叢書 第68集「志摩の国基礎資料 志摩郡史(鳥羽誌) 志摩国旧地考」著者 曽我部市太 井阪徳辰 発行者 三重県郷土資料刊行会)【シロウト意訳】
承応二年→1653年ですね
午の刻→11時から13時
禁裏→天皇がつねに
居住しているところ。
内裏。
居住しているところ。
内裏。
1653年5月23日のお昼頃
伊雑宮御殿の垣根&門が
南の方へ傾いた
伊雑宮御殿の垣根&門が
南の方へ傾いた
同年6月22日の深夜0時頃
御殿が炎上してるように見えたので
御殿が炎上してるように見えたので
禰宜(神職さん)等は驚いて
急ぎ集まってきたのだが…
急ぎ集まってきたのだが…
炎上していると思った御殿は
特に異常なし
特に異常なし
おかしいな、と思いつつも
帰宅しようとしたところ
帰宅しようとしたところ
また炎上してるように見えた
何これ?!何なん?!
一夜のうち3回もそんな感じで
神職さんや地元民たちは
神職さんや地元民たちは
集まったり解散したり…
そして翌日23日のお昼
内裏が延焼する
という出来事がありました。
という出来事がありました。
【あれこれ考察】
「瑞垣御門南方へ傾倒す」は
「禁裏延焼之儀」を1ヶ月も前から
「禁裏延焼之儀」を1ヶ月も前から
予兆していた、ってことでしょうか
承応という時代は1652から1654年までの
3年しか続かなかったのですね
3年しか続かなかったのですね
この時代の天皇は後光明天皇、後西天皇
江戸幕府将軍は徳川家綱
江戸幕府将軍は徳川家綱
「承応の変」という事件も起こり
幕府はそれまでの武断政治から
幕府はそれまでの武断政治から
文治政治へ政治方針を転換するなど
日本の社会でも大きな動きが
日本の社会でも大きな動きが
あったのですね(詳細はwiki)
江戸からも京都からも離れた志摩の国で
伊雑宮は
伊雑宮は
禁裏に「変」を告げていたのでしょうか…
これが「鳥羽誌」に登場する
「伊雑宮の怪異」の第1エピソード
「伊雑宮の怪異」の第1エピソード
衝撃度としては、けっこうマイルドかも
私的には、エピソード3、4、5、7が
かなり衝撃的でした
だって、明らかに宇宙(ry
…また書きますね♪
