益田宏美名義の2枚目のアルバム『家族〜Family〜』のラストに収められている子守唄である。作詞:岩谷時子、作編曲:樋口康雄。宏美さんの“おやすみソング”の系譜の中でも、クラシカルでとびきり美しい楽曲である。
「この広い空の下」に始まり「栞」まで続く流れは、いずれも大切な人へ一日(ひとひ)の別れを告げ、休息を取ろうという、穏やかな愛に包まれた曲ばかりだ。その中でこの「おやすみ」は、アルバムのコンセプトもあるが、「♪ おやすみ やすらかに」などの言い回しから分かる通り、やはり幼な子に向けた子守唄、という解釈が自然だろう。
この曲の詞の中で、大好きでまたすごく共感できる部分がある。それは以下の部分だ。
♪ パジャマ着て おやすみと
言う者が いればいい
人はみんな どこか淋しいのだよ
「人はなぜ挨拶をするのか」という、ある意味永遠の命題に関して、様々な方が多くの論を展開している。もちろんどれも頷けるものだし、挨拶にもいくつか機能があることも確かだ。その中で、私が一番膝を打ったのは、『教養としての言語学』(鈴木孝夫,岩波新書,1996)に書かれていた内容である。
その本の「ことばの働きとあいさつ」という章の、「関係の確認」という項から一部引用させていただく。
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毎日一緒に暮らしている家族の場合でも、また同じ学校や会社に通うものどうしでも、一夜明けた朝の出会いの時には、必ずあいさつをする。社会生活を営む人間にとって、別れて時を過ごすということは、私たちが思っている以上に、他者に対する言い知れぬ不安を募らせるものらしい。
たしかに誰かと一緒にいるときは、その人の気持ちの変化についていきやすいし、同じ情況の下にいるわけだから、自分と相手との相互関係も分っている。ところがいったん離れてしまうと、その間は、二人別々の経験をすることになるため、気持のズレや考え方の食い違いが生じてしまう可能性がある。だからこそ再び出会ったとき、両者の気持や関係が、別れる前と同じで変っていないことを確認したいのである。このことは、なぜ人は別れる時にもあいさつをするのかという問題にもつながっていく。
私たちが別れの際にあいさつをする理由は、再び会う時まで、今別れる時と同じ親愛の気持、同一の帰属感を相手が抱き続けることを、あらかじめ確認しておきたいのである。
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私はこの鈴木先生の挨拶論に出会った時、この「おやすみ」の歌と自然に繋がってしまったのである。人はみんなどこか淋しく、不安なのだ。強い絆で結ばれているはずの家族でも。だから、理屈っぽく言えば、「例え貴方が夜眠っている間にママが貴方の知らないことをしようと、別々の夢を見ようと、明日の朝起きた時も貴方が私の一番可愛い坊やであることに変わりはないのよ。そして坊やもママを大好きでいてくれるよね。だから安らかにおやすみなさい」というのが「おやすみ」の挨拶なのだ。
子守唄にふさわしく、オルゴールを模したような可愛らしいイントロで静かに始まる。宏美さんの夢見るようなお声も、優しく天上から響いてくるかのようだ。サビの「♪ 淋しくて泣きたいと〜」の部分からホルンやティンパニなどが加わり、贅沢なサウンドになる。
二度出てくる間奏では、バスーン、リコーダー、チューバ、ピッコロトランペットが代わる代わるテーマを奏でてゆく。
一旦曲が閉じた後、スキャットと「♪ おやすみ やすらかに」が静かに無伴奏でリプライズされる。すると遠去かる足音と扉の閉まる音が微かに聞こえ、温もりを残してこのアルバムの幕が静かに下されるのである。
♪ あした 平和であるように
おやすみ やすらかに
一日も早く、ウクライナの子どもたちにも安らかな夜が戻ってきますように。
(1991.3.21 アルバム『家族〜Family〜』収録)