1974年7月のことである。『スター誕生』決戦大会で8社からプラカードが上がり、宏美さんは事務所は芸映、レコード会社はビクターと契約を結んだ。芸映には10年目の1984年まで、ビクターには四半世紀後の2000年まで籍を置いている。

 

 事務所から独立した時と違い、レコード会社を移籍した際、その理由について、私の知る限り宏美さんは多くを語っていない。だが、ビクター時代の宏美さんを支えたディレクターであった飯田久彦氏が1999年に一足早くビクターから移籍、テイチクの社長に就任したことと無関係ではないだろう。

 

 この「あとかたもなく」は、テイチク(インペリアルレコード)に移籍して記念すべきシングル第1号である。当然、プロモーションにも力が入っていた。シングルCD自体もビクター時代の8㎝盤からマキシサイズの12㎝に変わり、3曲収録(カラオケを含むと6曲!)のミニアルバムの体で発売された。そしてジャケ写のバックも、衣装も真っ白。この「あとかたもなく」の曲のイメージにもピッタリだった。そして移籍後の心機一転、真っ新な宏美さんの気持ちも表していたのかも知れない。

 

 そして何よりチャレンジングだったのが、全編にわたってアナログ盤の針によるスクラッチノイズのような音を、意図的に挿入したことである。宏美ファンの間では、このスクラッチノイズを巡って大激論が交わされたのである。こんなことは、私の記憶では「恋待草」以来である。あの時は和服、髪型、メイク(特にジャケット)から曲調、ひいては『草花シリーズ』という企画そのものにも賛否両論が巻き起こった。

 

 だが「あとかたもなく」の時は、スクラッチノイズ一点だった。当時休眠状態から目覚めた宏美ファンたちの一部は『岩崎宏美メーリングリスト』に集結していた。ネット黎明期以来集って来た仲間たちは、ここで宏美さんに関する様々な情報交換をし、宏美さんの曲について率直な感想を語り合える雰囲気を歓迎していた。

 

 自由にものが言い合えるからこそ、この「あとかたもなく」のスクラッチノイズについても、酷評をするメンバーが現れた。あんなものは許容できない、CDが不良品かと思った、などという意見が飛び交った。もちろん擁護派も黙ってはいなかった。いつしか楽しいおしゃべりの場であったはずのメーリングリストは荒れ、トラフィックが激減、衰退期に入るのである。

 

 

 曲そのものについて触れていなかった。作詞:エリ、作曲:松田良、編曲:T.N.T.M.。エリさんは目のご不自由な方で、アニメ『キャメロット』の試写会での出会いがキッカケとか。和歌を嗜む方で、昨年二冊目の歌集『スタンダード』を出版と、今なおご活躍だ。松田さんは、70年代前半にフォーク&ロックグループ「NORA」のボーカリストとして活躍された方だ。T.N.T.M.とは、お馴染みのドラマー沼澤尚さんと、キーボーディストの森俊之さん二人のイニシャル。佐々木孝之さんのアレンジが先に出来ていたが、敢えてリアレンジしたそうだ。

 

 エリさんの詞は、解るよりも感じた方が良いのかも知れない。「♪ 光に体も心も 溶け出して/そうよ あとかたもなく/目も眩む 湖へあなた」「♪ 白い電話冷えてゆく」辺りの歌詞のせいだろうか。私はこの歌のイメージは目も眩むほどの光る白、ホワイトアウトしてしまう世界なのだ。

 

 そして私に大きなインパクトを与えたのは、スクラッチノイズよりも、インドネシアのガムランを思い起こさせるような不思議な音の混じり合いと、小鳥のさえずりのような音だ。そのアレンジが、この曲に何とも言えない無限の広がりを与えているのである。これは、それまでの岩崎宏美の全シングル・アルバム・ライブ曲を通じて、ついぞ感じたことのなかった宇宙観である。

 

 加えて、私の捉えでは、ビクター最後のシングル「許さない」(間にメディアファクトリーからリリースされた「ぼくのベストフレンドへ」がある)とこの「あとかたもなく」は、サビに意図的に宏美さんのファルセットを使用した過渡期的作品である。「許さない」が、強いファルセットのロングトーンで引っ張る「剛」のボーカルだとすれば、「あとかたもなく」は、ふわふわと頼りなげなファルセットが繰り出される「柔」の歌い方である。私の大好きな岩崎宏美移籍第1弾のシングルである。

 

 

 「あとかたもなく」は、当時のコンサートでももちろん披露されたが、元々の佐々木さんのアレンジを下敷きにした演奏だった。この佐々木さんアレンジは、後に『30TH ANNIVERSARY BOX』(2004)のレア・トラックスに〈未発表テイク・リミックスバージョン〉として収録された。これも悪くないが、オーソドックスに過ぎ、インパクトには欠ける。

 

 ここまではいい。だが、デビュー40周年記念の2枚組『MY SONGS』のDisc.2『SINGLE COLLECTION 2001-2015』*に、何とシングル・バージョンではなく、佐々木編のものが収録されたのだ。確かに物議を醸したかも知れないが、移籍直後の息吹を感じる、新機軸に富んだT.N.TM.バージョンが収録されなかったことは、大変残念であった。実験的なプロデュースであったとしても、そこは一本筋を通して「シングル・バージョン」としての扱いで通して欲しかった、と思うのは私くらいだろうか。

 

 最後に私事であるが、この「あとかたもなく」のシングルがリリースされて2日後、息子が生まれているのだ。😍あの白のイメージの宏美さんのジャケ写は、息子の赤ん坊の頃の思い出と重なっている。そんなこともあり、この曲のシングル・バージョンには特別な思い入れがあるのかも知れない。

 

(2001.5.9 シングル)

 

*この『SINGLE COLLECTION 2001-2015』には、確かにニュー・ボーカルのバージョンが多く採用されているが、シングルと全く違うアレンジが収録されたのは「あとかたもなく」のみである。