さてさて…
長保(ちょうほう)二年(1000)十二月十五日
皇后定子(こうどうていし)は難産の末に、第三子となる皇女媄子(びし)を出産しました
しかしながら、昨年に続いての出産で、相当弱っていた定子の身体は限界を迎えていました
何とか媄子を産んだものの、後産(のちさん)が下りなかったのです
通常は、胎児分娩と共に、胎盤と卵膜が子宮から排出されるのですが、様々な理由によりこれ等が娩出されず
子宮に残ってしまう状態を、後産が下りないと言います
特に体が衰弱している時に見られるケースで、分娩で多くの出血をしている中で、更なる出血を強いられた末に…
最悪の場合、衰弱死してしまうということで、当時の御産時において、散見されるアクシデントでした
既に分娩で体力を使い果たしていた定子に、後産を遂げる余力はなく
媄子出産の翌未明、遂に息を引き取ってしまったのです
この時、兄伊周(これちか)は、妹の御産に奉仕していたのですが
みるみる間に冷たくなっていく定子の様子を、ただ見守る以外に術はなく
座産(ざさん)の状態で息絶えた妹の亡骸を抱えつつ、慟哭したと言われています
ところで、この時代の一次史料として価値の高い三つの日記から、定子崩御の様子を見てみますと…
➀道長(みちなが)の『御堂関白記』(みどうかんぱくき)には全く記述なし
②『黒光る君』こと、小野宮実資(おののみやさねすけ)の『小右記』(しょうゆうき)には、『皇后が崩御された』
と短く且つ素っ気ない記述のみ
上記通りでした
道長にとっては、娘である中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)の目の上のたん瘤であった定子は、邪魔者以外の何者でもありませんでした
出家して后の正当性に疑問を呈されながらも、一条の不動の愛を受けた定子の存在は、権力確立を目指す道長には障害であり
彼女の排除を意図して、ここまで相当な嫌がらせを行っていたことは、何よりも自分自身がよく認識していました
彰子を入内させて、一帝二后(いっていにこう)という未曽有な事態を演出した背景も、定子と一条を引き離すという、露骨な
パワハラに等しい行為でした
それにも拘わらず、却って一条と定子の絆は深まり、第三子懐妊という事態を受けて、道長のメンタルは相当打ちのめされていたと考えられます
ここで、定子は敦康(あつやす)に続き、二人目の皇子を産めば
➀定子の政治的地位の向上と、外戚である中関白家(なかのかんぱくけ)の復権が
現実のものとなる一方で…
②(未だ出産不可能な)彰子の后としての地位の低下と、自身に政権が死に体となる危険性
が生じる訳で…
到底道長は、心穏やかではいられなかったことが、容易に想像出来ます
しかしながら、歴史の神は道長に加担
定子が産んだのは皇女であったのみならず、アクシデントで彼女が崩御するという、想定外の結果をもたらしたのです
伊周達、中関白家にしてみれば、痛恨の極みであったのですが、娘彰子最大の脅威であった定子の退場は…
まさしく、道長一家には慶事であったと言い切っても、過言ではなかったでしょう
(正直、ほっとしたというのが、真実だったと思いますが…)
但し、道長にとって、定子崩御の日は、数年来抱えていた、不安や懸念が払拭された日であったのですが…
同時に、見えない何か(霊的な現象が彼を襲ったのか)の恐怖に怯える一日でもあったのです
では、彼女が崩御した十二月十六日に、果たして何か起こったのでしょうか
前述の三つの日記の一つである、蔵人頭行成(くろうどのとうゆきなり)の日記『権記』(ごんき)には、その一部始終が記されて
おり、尋常でない様子が窺い知れます
この続きは次回に致します