さてさて…
長保(ちょうほう)二年(1000)二月二十五日、晴れて中宮(ちゅうぐう)となった彰子(しょうし)ですが
中宮としての、初めての内裏参内は、それから一か月以上過ぎた、四月七日のことでした
(意外と遅いなという感もありますが…)
更に、一条帝(いちじょうてい)が新中宮の許に渡御(とぎょ)したのは、参内から二十日以上経った、五月四日であり
一条と彰子との間の微妙な空気や、舅である道長との嚙み合わない雰囲気が反映されている気がしますね
その後、彰子の動きですが
➀五月二十八日、内裏から土御門殿(つちみかどどの)に遷御
②七月二十三日、源則忠(みなもとのりただ)邸に遷御
③九月八日、内裏再度参入
上記の通りだったのですが、この彰子不在の間、一条は女御元子(にょうごげんし)を参入させることを試みたものの
道長の妨害により失敗したことは、前回のブログでお話しました
元子参入が儘ならないとみた一条は、何と、懐妊中の皇后定子(こうごうていし)を参入させたのです
件の定子の内裏参内は、当時の貴族社会の常識から、大変逸脱した行為であったのです
何故なら、出産は穢れを催すものと考えられていた当時、妊婦である定子が参内すれば、忽ち内裏は穢れることは必定で…
それは絶対回避しなければなりませんでした
にも拘わらず、一条は我意を優先して、定子を内裏に呼んだのです
ところで、身重の妃が内裏に参入した先例として…
当時の花山帝(かざんてい)が、懐妊中の女御忯子(にょうごじし)を参内させたケースがあり、体が衰弱無理な移動は禁物
であった女御に参内を強いた結果
忯子は胎児共々亡くなってしまうという、悲劇を招いてしまいました
但し、この話は、『栄花物語』(えいがものがたり)や『大鏡』(おおかがみ)等の歴史物語における話であり、貴族の日記である『古記録』(こきろく)には記されてはいません
想像を逞してさせて頂くならば、花山の帝に相応しくない暗愚性を強調して、この翌年の彼の出家退位は止むを得なかった
という、寛和の変(かんなのへん)の正当性を補完する目的で、上記の歴史物語は記述されている可能性は髙く
したがって、史実ではその様な出来事はなかったのかもしれません
これに対して、一条が懐妊中の定子を内裏に呼んだ一件については…
行成の日記『権記』(ごんき)の記事があり、一条が内裏が穢れることもお構いなしに、定子を参入させたことは
動かし難い史実であったのです
後世において、一条は『好文の賢王』(こうぶんのけんおう)という称号を冠された様に、名君の誉れが高かったのですが
➀道長の栄華は、円融皇統(えんゆうこうとう)による皇位継承が確定したことによってもたらされた
②花山の属していた冷泉皇統(れいぜいこうとう)は、道長によって廃絶された
という、歴史の勝者となった陣営への忖度により
➀一条は賢帝
②花山は愚帝
という評価が下され、その結果として、歴史物語による史実の歪曲が行われたと思われます
(但し、タケ海舟は一条帝は暗君とは思っていませんが)
さて、一条の強いての懇望により、体調が芳しくなかった定子は、八月八日に内裏に参入
八月二十七日に里第(りだい)である平生昌(たいらのなりまさ)邸に退去するまで、約三週間弱の家族水入らずの日々を過ごしたのです
但し
これが、一条と定子の今生の別れとなってしまうとは、当事者である二人は予想だにしていなかったと考えられますが
ただでさえ、衰弱していた体に無理を強いた参内が、彼女の命を縮めてしまったことは
間違いないと思いますね
そして、その年の十二月十五日に、定子は第二皇女躾子(びし)を出産したのですが…
後産(のちさん)が悪かった彼女は、その翌朝、力尽きたかの様に、崩御を遂げてしまったのです
享年二十五歳という、短くも波乱に富んだ生涯を送った定子の死は
彼女の敵味方を問わず、大きな衝撃を及ぼすことになるのです
この続きは次回に致します