さてさて…
『光る君へ』の時代考証の重要資料となっているのは
その時代を生きた人々によって書かれた、日記類であります
別名『古記録』(こきろく)と呼ばれる日記は、同じ時代で活躍した人々が実際に目撃・体験若しくは伝聞に基づいて
記述されており、史料的な価値・信憑性も高く、研究者にとっては必須の研究題材であります
幸運なことに、この『光る君へ』が舞台となっている、王朝時代(平安中期)は、政治的に大きな足跡を遺した三人の公卿の手に
よる日記が現存しており、これ等三つの日記に当たることで、比較的容易に当時の政治・社会の様相を窺い知ることが出来る訳です
既にご存知の通り、件の三人の公卿とそれぞれの日記は
➀道長(みちなが)の『御堂関白記』(みどうかんぱくき)
②実資(さねすけ)の『小右記』(しょうゆうき)
③行成(ゆきなり)の『権記』(ごんき)
上記の通りですが、同じ公卿とはいえ、その政治的立ち位置は微妙に異なっており、それ故に、彼等が関わった政務や儀式に
ついての記述に温度差や濃淡があることは、致し方ないと思われます
特に、皇后定子(こうごうていし)崩御前後の状況については、定子の政敵とも云うべき立場にあった道長は…
全く日記を書いておらず…
自分の感情等を踏まえながら、詳細に記すことが特徴であった実資の『小右記』も…
何故か、長保年間の記述が、あまり遺ってなく
唯、定子崩御に関する簡潔な記述のみに留まっています
長保年間は、道長が娘彰子の入内や立后を実現させるべく、一条帝(いちじょうてい)との折衝を行った時期に該当するのですが
一連の交渉は秘密裡に進められており、秘事に関与していたのは、道長本人以外には
➀国母詮子(こくもせんし)
②一条帝
の当事者三名であったのですが、彼等の間を何度も往復意見調整に奔走したのが
当時、帝の秘書課長に相当する蔵人頭(くろうどのとう)であった、行成だったのです
この行成の日記『権記』も、政務や儀式について、詳細な記述を行っているのですが、その記述態度は…
あの実資以上に精緻であり、読んでいて、恰もその場に居るかの如くの印象すら受けてしまうのです
この行成が、彰子入内に関する一連の経緯や、その核心に位置していた道長・一条の様子を克明に記していて
まさしく、歴史のリアルを体験させてくれるのです
因みに、道長も『御堂関白記』に、彰子入内・立后について詳しく記述しているのですが
事が決定するまでの詳しい交渉過程については、殆ど書いていないため(当事者として微妙な立場ですからね)
『権記』に詳しい記録を遺した行成の功績は、極めて大きいと言えますね
さて
➀長保(ちょうほう)二年(1000)十二月十五日⇒定子が皇女媄子(びし)を出産
②翌十六日の未明⇒定子崩御(享年二十五歳)
という、慶事と凶事が相半ばした二日間の『権記』の記事を見てみますと
先ず➀についてですが、媄子出産と同じ日に、大変な事件が起きていたのです
それは、夜中、女院詮子の里第(りだい)である東三条殿(ひがしさんじょうどの)が焼亡してしまったのです
但し幸いにも、火災発生時、詮子は同第には滞しておらず、(数ヵ月前より)中納言平惟仲(ちゅうなごんたいらのこれなか)の
三条第(さんじょうてい)に滞在していたみたいで
火災後、女院は直ちに道長の土御門殿(つちみかどどの)に移御(いぎょ)したのです
火災勃発の報に接した行成は
➀内裏に参上して、一条帝に火災の状況等を報告
②更には先例に基づいて、女院へのお見舞いの品についての意見具申を行う
等して、女院と帝の間を往復、事態収拾に努めていました
実は、蔵人頭として、超多忙な日々を過ごしていた行成ですが、件の重職に加えて、彼は女院の家政機関を掌る女院別当(にょいんべっとう)を兼務していました
蔵人頭と女院別当を兼任することで、行成は一条・道長・詮子という、国政の意思決定を担う最重要人物の三人全員に
身近で仕えた訳で…
彼に対する、三人の信任が如何に厚かったことが首肯されます
一先ず、安堵の胸を撫でおろしたと思われる行成でしたが…
この夜に浮かんだ月に関して、ある人が言った不吉な言葉を『権記』に記しています
但し、それは、御産が目前に迫っていた皇后定子を襲う凶兆の予言であり…
果たして現実のものとなってしまったのです
続きは次回に致します