さてさて…
長徳(ちょうとく)三年(997)六月二十二日の夜
中宮定子(ちゅうぐうていし)は皇女脩子(しゅうし)を伴い、職御曹司(しきのみぞうし)に遷御(せんぎょ)しました
昨年春頃に内裏(だいり)を退出して以来、一年余り過ぎての遷御だったのですが…
一条帝(いちじょうてい)は、彼女の内裏参入に反発していた公卿達に配慮する必要から、定子母子を内裏の中には入れず
同所とは道一本隔てた、職御曹司を暫定的な居所と定めたのです
当面は、内裏外である職御曹司に定子を住まわせることで、冷却期間を設けようとしたのですが
一条の予想に反して、公卿達の目は厳しかったのです
取り分け、批判の急先鋒であったのは、『黒光る君』こと、中納言小野宮実資(ちゅうなごんおののみやさねすけ)でした
実資の日記『小右記』(しょうゆうき)には、定子遷御について
➀今夜、中宮(定子)は職御曹司に参られた
②天下は甘心(かんしん)しなかった(甘心=感心)
③あの宮(定子)の人々は、『中宮は出家されていない』と称している
④甚だ稀有なことだ
以下の如く記されています
(『光る君へ』劇中では、『空前絶後』、『前代未聞』とロバート秋山さんが怒っていましたね)
実資は、一条・国母詮子(こくもせんし)・左大臣道長(さだいじんみちなが)が、事前に陣定(じんのさだめ)で公卿達に諮らずに
定子遷御を専断したことを糾弾しており、それは…
一人彼のみならず、他の公卿達にも共通した認識であったのです
公卿達が問題にしていたのは…
➀事情はどうであれ、定子が無断出家を果して、中宮としての資格を喪失していたにも拘わらず
②そもそも、出家等していなかったかの如く、何食わぬ顔で、内裏に戻ってくるという定子サイドの態度
③それを容認した一条の判断
上記三点であり、貴族社会のトップに立つ帝や中宮が
公私混同のもと、自ら率先して公卿社会のルールを破ったことだったのです
普通に考えれば、実資を始めとする公卿達の意見が、正鵠を得ていた訳ですが、一条はこの一点においては断固として譲りませんでした
本来ならば、詮子は国母として、道長は執政として、帝の公私混同を諫めなければならなかったのですが…
詮子は初孫の脩子誕生により、心境に変化が生じたのか、寧ろ、今回の遷御を積極的に支持する姿勢を見せていました
姉に比べると、道長の心中は複雑であったことは間違いなく、定子の職御曹司への遷御が…
そのまま、彼女復権への足掛かりとなることを、彼は危惧していたと思われます
既に、伊周(これちか)・隆家(たかいえ)の召喚は決定済で、後者に至っては既に帰京している以上
定子が再び後宮に復帰すれば、一条は中関白家(なかのかんぱくけ)の復権をも、なし崩し的に決めてしまう可能性は髙く…
そうなれば、道長は娘彰子(しょうし)を入内させることが出来なくなってしまう訳で、それだけは何としても回避しなければならなかったのです
事実、定子に仕える女房達は…
➀中宮様は出家等されておりません
②ただ単に、髪の毛を少し切ったに過ぎない
③出家は、検非違使(けびいし)に里第(りだい)を蹂躙されたショックによる行動だった
等々、しきりに『出家という事実はなかった』と懸命な打ち消しに努めており
その女房達の中心こそが
『枕草紙』(まくらのそうし)を書き始めたばかりの、清少納言(せいしょうなごん)であったかもしれませんね
そもそも、定子の軽率な出家が、彼女の中宮としての正当性を揺るがせた訳で
彼女が冷静さを維持して出家をしなければ…
兄弟達が罪人とされるという状況の中でも、一条が后位を廃さない限り、定子は中宮の座は安泰でした
ところが、彼女は無断で出家
兎に角、定子陣営は、『出家していても、出家していないのだ』と…
あらゆる論法を講じても詭弁を弄さなければならず…
復権への道を目指すためとはいえ、苦しい事情であったと思われます
こうした状況の中、一条は定子を、正后、則ち中宮として、これまで通りに遇する意思を公にしたのですが…
公卿達の、取り分け、(定子不在の間に)後宮に娘を入れていた、右大臣顕光(うだいじんあきみつ)と大納言公季(だいなごんきんすえ)の反発は強かった筈で
一条は当初目論んでいた、早期な定子の内裏参入を延期せざるを得ず
当面は、彼女を職御曹司(しきのみぞうし)に留めることにしたのです
そして、暫くの間、一条は人目を憚り、夜中に職御曹司を訪れて、定子との逢瀬を楽しみ…
明け方にはそこを後にするという、生活を続けることになったのです
一目を気にして、愛する女性に夜にしか逢うことが出来ない帝… なんだか可哀そうですね
さて、物議を醸した、定子遷御の翌日
女御義子(にょうごぎし)の父である大納言公季に、内大臣宣旨(ないだいじんせんじ)が下ったのですが…
次回は、この宣下を主導したと思われる、道長の思惑と
それに伴う、公卿人事の風聞について、お話したいと思います