さてさて…
一条帝(いちじょうてい)は、中宮定子(ちゅうぐうていし)を職御曹司(しきのみぞうし)に参入させたことで…
彼女を中宮として、変わりなく遇することを公式に表明しました
但し、定子への公卿達の反発は依然として根強く、一条は早期に想定していた彼女の内裏参入を、当面保留することを余儀なく
されたのです
彼女が職御曹司に入った翌日の、長徳(ちょうとく)三年(997)六月二十三日
大納言公季(だいなごんきんすえ)に内大臣宣旨が下ったのですが、この突然の宣下に対して
『黒光る君』こと小野宮実資(おののみやさねすけ)は、『甚だ理由のないことである』と、日記『小右記』(しょうゆうきに)に
疑問を投げかけています
この頃の内大臣という官職は、次期摂関と目されていた公卿を以って任じられる職とされており
摂関の家としての地位を固めつつあった、九条流(くじょうりゅう)とはいえ、兼家(かねいえ)末弟で傍流に過ぎない公季が
任命されたことは、公卿社会には驚きを同時に、(実資と同じく)その人事の正当性を疑問視する向きも少なからずあったのです
この人事を主導したのは、言うまでもなく、内覧左大臣(ないらんさだいじん)の道長(みちなが)であったのですが
かれは、内大臣適任者ではなかった公季を、敢えて任命した背景には、先の長徳の変(ちょうとくのへん)の罪科のより
大宰府(だざいふ)に左遷されていた、伊周(これちか)の召喚が決定帰京が秒読みになっていたことが挙げられると思われます
言うまでも無く、左遷される前の伊周の官職は、内大臣であり、帰京した彼が、直ちに政界復帰ということにはならなくても
一条帝は、時期を見計らって、義兄の復権を進めることは容易に推察された訳で、その際に内大臣に再任される可能性が
極めて髙かったのです
加えて、前述の通り、内大臣は次期摂関内定者を以って充てる官職で、該当者がいない場合はこれを空席とすることになっていたので
一条はこの内大臣についての内規(ないき)を利用して、空席である同職に伊周を戻すことで、彼の、則ち中関白家(なかのかんぱくけ)の復権を図ろうと考えたのでしょう
その様な事態になって苦境に立たされるのは、長徳の変で最も恩恵に与っていた道長である訳で、彼は何としても伊周の早期復帰に繋がる、内大臣への復職を阻止しなければならなかったのです
その方策として実施されたのが、(摂関候補者ではない)公季への任内大臣宣旨(にんないだいじんせんじ)であり
この新たな例の創出により、内大臣は…
➀次期又は候補者である公卿が就任する
という従来からの要件の他に…
②公卿の重鎮を以ってこれに充てる
という二つ目の要件が加わり、公季は後者のそれによって就任する初例となったのです
最も、長徳の変で、定子が内裏を退出
後宮の后妃(こうひ)不在を解消すべく、公季娘の義子(ぎし)と右大臣顕光(うだいじんあきみつ)娘の元子(げんし)が入内
共に女御(にょうご)となっていたのですが、元子の父顕光は既に右大臣に昇進していたのに対して…
(元子よりも先に入内していた)義子の父公季は、依然として筆頭大納言に留まっていました
公季の心中、穏やかならざるものがあったことは、想像に難くなく、一方の道長も…
➀伊周の内大臣復職による、その政界復帰を阻止する思惑
と共に
②叔父でもある公季に内大臣ポストを与え、彼の名誉心を満足させることで、内大臣ポストを埋めてしまう
と云う意図から、帰京した伊周の早期な復帰の可能性を閉ざすことを策したと言えます
そして、この道長の策略は見事に的中
この年末に、伊周は帰洛を果したのですが、彼を遇する官職(大臣以上)が、全て埋まっている以上…
彼の早期復権の道は頓挫してしまい、その後の彼は、太政官への復帰が実現するまで、約八年余の歳月を無官で過ごすことを強いられたのです
因みに…
公季の内大臣就任によって…
➀太政大臣:空席
②左大臣:道長
③右大臣:顕光
④内大臣:公季
上記三人によって、太政官首脳部が構成されたのですが…
この三大臣の顔触れは、その後二十年余りの間、変更することはありませんでした
加えて、顕光と公季、何れも長寿を保ったため、容易に大臣に空きが出来なかった訳で
その分、伊周復権阻止に、両者は大いに貢献したということになりますね
更に付言するならば、両者は宮廷政治家としては、極めて凡庸であり、伊周に代る、道長の政敵とはなり得なかったことも
道長には幸いしたと言えますね
しかしながら、このことは、あくまでも、公季一人には該当したのですが
今一人の顕光については、必ずしもそうではなく、折あらば、『道長に取って代わらん』
とする意思を、持ち続けていたのです
(このお話については、機会を見つけて、触れたいと思います)
さて、公季が内大臣に昇進することが決まり…
次の人事の焦点は、公季の昇格で空席が出来た大納言ポストに、果たして誰が就任するのかであったのです
続きは次回に致します