さてさて…
皇女修子(しゅうし)出産後も、里居(さとい)を続けていた中宮定子(ちゅぐうていし)ですが
長徳(ちょうとく)三年(997)六月二十二日の夜に、内裏(だいり)に遷御(せんぎょ)しました
公卿達の反発を押し切る形で、一条帝(いちじょうてい)は定子を内裏に迎えたのですが
厳密には、定子が遷御したのは、内裏ではなく、内裏の外にあった、職御曹司(しきのみぞうし)だったのです
職御曹司とは、皇后(中宮)に関する実務全般を統括する役所のある建物を指すのですが、帝が日常生活を送る
清涼殿(せいりょうでん)や、后妃(ぐうひ)の居所がある殿舎(でんしゃ)等がある内裏と、場所を異にしていました
ではどこにあったのかと云うならば、内裏の東隣で、僅かに道一本隔てただけの指呼の間に位置していたのです
平安時代前期には、摂関や大臣の個室である直盧(じきろ)が置かれていて、ここで人事会議である除目(じもく)が開かれるケースもあったのですが、平安中期に入ると、火災等で内裏が焼けた時の皇后(中宮)の避難先又は、臨時の仮御所として用いられていました
(内裏が焼亡した場合、再建には結構な日数を要する訳で、その間は大内裏(だいだいり)の外にある里内裏(さとだいり)に遷御することになるのですが…)
ところで、『光る君へ』劇中では、最近、職御曹司(しきのみうぞうし)の場面が多くありますが、それは定子が同所を仮の御所として使用していたからで、一条も彼女や皇女脩子に会う時は、ここを訪れています
前述した通り、職御曹司は内裏から僅かしか離れていなかったとはいえ、内裏の外にあったので…
御曹司に行く際は外出即ち、行幸(ぎょうこう)扱いということになり、その度ごとに、帝は乗輿(のりごし)に乗って、多くの
供周りを連れて行かなければならず、『光る君へ』でもその様に描かれていましたね
長徳の変以前、内裏における定子の専用殿舎は、登華殿(とうかでん)であり、本来ならばそこに入るべきであったのですが…
既に出家して中宮としての正当性が著しく損なわれていた定子を、今まで通り内裏殿舎に住まわせては…
公卿達の反発を受けることは必至でした
公卿達のトップである左大臣道長(さだいじんみちなが)も、本心では同僚達と考えを等しくしていたと思われますが
事実上、中宮として定子が死に態(しにたい)となっている以上、一条は自身の皇統を繋ぐという最大の使命を果たすためには…
定子以外の他の妃を後宮に迎えなければならず、実際、彼女が里居している間…
大納言公季(だいなごんきんすえ)娘の義子(ぎし)と、右大臣顕光(うだいじんあきみつ)娘の元子(げんし)が、相次ぎ入内
両者共に女御(にょうご)となっていました
いくら正后である中宮であっても、落飾・俗人としての地位を放棄した以上、定子がこの先皇子女を儲ける事は…
絶対に許容されるべきことではなく、俗人である新しい后妃を(複数)迎えたうえで
その誰かが産んだ皇子を円融皇統の継承者にするのが、然るべき選択肢であったのです
事実、国母詮子(こくもせんし)は義子・元子が入内した時、
『誰でも良いから皇子を産んで貰い、その皇子に円融皇統を継がせたい』と公言しており、これこそが…
我が子である彰子(しょうし)が一条の皇子を産むことを悲願としていた道長とは、異なる思惑を持っていたのです
もし仮に、先年末に定子が皇女ではなく、皇子を産んでいたならば…
『出家した中宮が皇子を産んだ』、『しかも一条帝唯一の子供である
』という他に選択肢がない状況の中…
その皇子を一条の皇子として認知するか否かで…
➀『誰でも良いから一条の皇子を産んでくれれば良い』と考える詮子
②『彰子以外の后妃が産んだ皇子でなければならない』と考える道長
円融皇統継承を巡り、姉弟の間に不協和音が生じる可能性もあったと思われます
幸か不幸か定子が産んだ第一子は皇女であったので、この懸念は杞憂に終わったのですが
これが皇子だったら、一条朝は重大な危機に瀕したかもしれませんね
とは言っても、公卿達は出家した中宮が内裏に戻って来ることに難色を示していたので…
『内裏に入ることに反対が多いならば、内裏ではない場所に、定子母子を住まわせれば良い』
という妥協案(落し所)が提出され、早速それが採用されるに至ったのでしょう
面倒な行幸を厭わなければ、一条はいつでも定子や修子に会うことが出来る訳で
公卿達の反対をかわす意図を持った、職御曹司への遷御決定であったと言えますね
因みに、長保三年六月二十二日は、一条帝の東三条院詮子への行幸(病気見舞い)が行われており…
恐らく、この行幸の場で、道長を含めての三者間合意の合意が取られたうえで
その夜、定子の遷御と一条との対面が行われたと思われます
因みに、帝の国母への行幸には、公卿達も供奉していた筈ですが、その席で事前通達も無く、定子の内裏遷御一件の是非が謀られたことは、想像に難くはなく…
抜き打ち的で尚且つ、正面突破的な手法による大事決定の場に居合わせた公卿達の多くは…
内心では、納得していなかったと思われます
特に…
何事も筋を通すことを信条としている、あの『黒光る君』はどうだったのでしょうか
次回はその話を致したいと思います