さてさて…
有力公卿の娘達の先陣を切って入内した、大納言公季(だいなごんきんすえ)娘の義子(ぎし)ですが…
長徳(ちょうとく)二年(996)七月二十日の入内から、二十日ばかり経った、翌八月九日
義子は女御宣下(にょうごせんげ)を受けたのです
女御とは、帝に入内する女性の身位(しんい)で、皇后(こうごう)・中宮(ちゅうぐう)に次ぐ位でした
平安時代には、公卿クラスの貴族の娘が入内した時に、宣下される位となっていました
帝の正妻である皇后(中宮)は、定員一名(この頃は二后並立という変則なケースもありましたが…)でしたが
女御には定員枠がなかったため、一人の帝に複数の女御が群立することも珍しくはありませんでした
但し、何人かいる(大人数ではありませんが…)女御の中から、正妻である皇后(中宮)が一人選ばれる訳で
女御であることが、皇后になる必須要件でもあったのです
(因みに、一条帝の中宮定子<ちゅうぐうていし>も、中宮に冊立される前には女御でした)
さて、女御となった義子が居所とした宮殿は、後宮の七殿五舎(しちでんごしゃ)の中で…
最も格式が高いとされた弘徽殿(こきでん)で、彼女は『弘徽殿の女御』(こきでんのにょうご)と呼ばれたのです
その格式の高さから、皇后・中宮が弘徽殿の主であったケースも少なからずあり、定子が同殿に隣接する登花殿(とうかでん)を
居所としていたことを考えれば
定子を遥かに凌駕する高貴性を纏った、義子に対する期待度が髙かったことが知悉されます
ところが…
周囲の期待に反して、一条は女御義子を表向きには重んじながらも、彼女を寵愛することはなかったのです
何故、一条が義子を寵愛しなかったのか
その理由は不明と言わざるを得ないのですが、『光る君へ』の時代考証を担当されている、歴史学者の倉本一宏(くらもとかずひろ)氏は
『義子との皇子懐妊の機会を意図的に避けた、一条の政治的選択に依るものである』とする見解を示しておられます
史料等にも、一条が義子のいる弘徽殿を訪れたり、帝の日常生活の空間である清涼殿(せいりょうでん)に彼女を召した記事が見受けられず、倉本氏の指摘は正鵠を得ていると思われます
一条が心から愛している后妃(こうひ)は、中宮定子であることは論を俟たないのですが…
長徳の変で、彼女の実家である中関白家(なかのかんぱくけ)が没洛
更に里邸(りてい)にいた定子が許可なく出家したことで、彼女は中宮としての正当性を欠いた『不完全な后』となって
しまいました
この結果を受け、個人的な意思は別として、一条は自らの皇統(円融皇統)を存続させるという、帝の責務を果たすべく…
新たな后妃を迎えなければならず、その意向を受けて、有力公卿達の娘達の入内ラッシュは始まったのです
但し…
次々と入内して来る娘達(彼女達は皆、入内した後に女御宣下を受けるのですが)の中で、誰を寵愛して懐妊させるのは
一条の意思次第であり、それは彼女達の父親である、公卿達との力関係に因る所が大きかったのです
そう考えれば、父母共に醍醐帝(だいごてい)の孫で、自身も曽孫にあたる義子は、高貴性では非の打ちどころがなく
加えて、筆頭大納言である父公季の後見(うしろみ)が十分見込まれる以上
彼女は一条の皇子を産む后妃としては最適任であったのですが…
何故か、一条は義子を寵愛することはなかったのです
その理由を、単に一条・義子当事者同士の問題とか、一条と公季との関係性等に求めることも可能ですが…
遠からぬうちに、執政である左大臣道長(さだいじんみちなが)娘の彰子(しょうし)の入内が暗黙の了解となっている以上…
一条は定子・彰子以外の女御との間に、皇子を儲ける機会を作ることを、意図的に避けたのかもしれず
残念ながら、義子は対象から外されてしまったと思われます
入内時点で、既に二十三歳となっていた義子は、当時としては晩婚に当たり、父親の公季は『掌中の珠』であった嫡女を
文字通り『きさきがね』として、温存していたと思われます
本来なら、もっと早い段階で、一条帝の入内を念頭に入れていたのかもしれませんが、関白道隆(かんぱくみちたか)が権勢を極めていた頃には、一条後宮は定子一人の寡占状態となっていて…
公季は愛娘を入内させることが出来ず、焦燥を募らせつつも、機会を窺っていたと思われます
長徳初頭の疫病禍を生き残り、太政官第三位に躍進した公季は
➀中関白家の没落と定子の出家
②道長娘彰子が入内適齢期に達していなかった
上記の要素も追い風になり、満を持して義子を入内させ、彼女に外戚の夢を託したのですが
義子が一条の寵愛を受けられない以上、如何ともし難く、公季の外戚への道は早くも閉ざされてしまったのです
彼の無念や、義子の心中は察するに余りあります
但し、帝の皇子を儲けられなくても、義子の女御の地位は安泰であったことは云うまでも無く
寛弘(かんこう)二年(1005)、彼女は、正二位(しょうにい)に昇叙され、従三位(じゅさんみ)が相場であった女御としては、
極めて高位に上ることが出来たのです
万寿(まんじゅ)三年(1027)に出家した義子は、それから二十六年後の、天喜(てんき)元年(1053)に
八十歳の天寿を全うすることになります
なお、余談になりますが…
公季を初代とする家は、その邸宅の名前である閑院第(かんいんだい)から取って、閑院流(かんいんりゅう)と呼ばれるのですが
この家は摂関政治の後を受けた院政(いんせい)の世において…
摂関家に代わり、新興の外戚家(がいせきけ)として、帝の生母を輩出することになります
そのことに関しては、このブログの主意とは逸れますので、お話しませんが、女性としての幸せを掴めなかったとは云え
義子は閑院流出身の最初の后妃として、同家発展の基を築いた女性であったと断言しても良いと思われます
お話は戻りますが…
一条が義子を寵愛する意思がないことを悟った、国母(こくも)の東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)と道長は
直ちに、次なる公卿の娘を入内させたのです
その女性とは…
右大臣顕光(うだいじんあきみつ)の娘、元子(がんし)でした
この次は、元子についてお話致します