さてさて…
長徳(ちょうとく)二年(996)、正月早々に勃発した
中関白家(なかのかんぱくけ)の伊周(これちか)・隆家(たかいえ)兄弟と、花山院(かざんいん)との従者同士のトラブルは
当時者(特に花山院)の不拡大方針にも拘わらず、これを政争の具にするという、意図的な思惑の許…
あっという間に公卿社会の知る所となってしまいました
右大臣道長(うだいじんみちなが)の巧妙な情報操作により、一条帝(いちじょうてい)は中関白家兄弟達に対して
厳しい態度で臨まざるを得なくなってしまいました
一条の命により、職務に妥協を許さない、『黒光る君』こと検非違使別当(けびいしべっとう)の実資(さねすけ)指揮の下…
中関白家の家司(けいし)・郎党(ろうとう)達の家を強制捜査した結果
多くの武装兵や弓具等の武器の存在が明らかとなり、先の帝である花山への不敬罪(第一級罪に相当)の容疑が確定するに
至りました
この結果を受け、一条は道長を筆頭とする公卿達に、『伊周・隆家の罪状について、勘案して報告せよ』という命令を下したのです
件の一条の勅命を以って、中関白家兄弟は容疑者であることが確定
当然ながら、彼等は内裏への出仕も停められ、云わば謹慎状態となっていたのです
兄弟達が容疑者とされた影響は、彼等の兄弟姉妹である中宮定子(ちゅうぐうていし)にも影響を与えたことは言うまでも無く
後宮に居辛くなった定子は、内裏を退出そこから道一つ隔てた所にある、職御曹司(しきのみぞうし)に遷御(せんぎょ)したのです
この職御曹司とは、中宮に関する諸事一切の事務を掌る、中宮職(ちゅうぐうしき)の事務局であったのですが、ここに移ることにより、定子は兄弟の不祥事の責任を取る意思を表明したと思われますが…
同時に、後宮内で定子が批判の嵐に曝されることを懸念する、一条の配慮もあったかと考えられます
さて、その様な動きの中、事態は中関白家サイドにとって、ますます不利へと進んだのです
一条の国母(こくも)である東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)は、予てから体調不良を訴え、療養していたのですが…
病状は一向に恢復には向かわず、女院(にょいん)周辺は沈痛な憂慮の度合いを濃くしていました
その様な矢先、詮子の里第である土御門殿(つちみかどどの)の軒下から、女院を呪詛する人形等が発見されたのです
当時、呪詛は非常に恐れられていたものであり、しばしば政敵を呪い殺す目的で行われることもあったのですが
帝の生母である東三条院を対象とする呪詛は、帝を呪詛するに等しく、その罪は第一級の死罪が相当でした
誰が陰陽師(おんみょうじ)に対して『詮子を呪詛せよ』と命令したのか
は不明なのですが…
当時の政治状況から考え、二度にわたり関白就任を阻まれていた伊周が、その黒幕と目されていた彼女を呪詛する動機は十分過ぎる程あった訳で
ここでも伊周は、容疑者扱いを受けてしまったのです
そして、徐々に追い込まれつつあった中関白家に、ドドメを刺したのが…
翌四月一日、伊周が外祖父である高階成忠(たかしなのなりただ)に命じて
『臣下が許可なく行えない大元帥法(だいげんほう)を修して、道長を呪い殺そうとしている』という密告がなされたのです
大元帥法とは、真言密教(しんごんみっきょう)における呪術(じゅじゅつ)の一つで、本来ならば、敵国降伏や外国からの防衛を
祈願する主旨で行われるものとされていました
したがって、その性格上、大元法は帝がいる宮中で修されることが不文律となっており、臣下が私に行うことを固く禁じられていたのです
その禁断の修法を、道長を呪殺するという私的な目的により、勝手に行っているとする
『恐れながら…』の密告があったのです
この大元帥法の呪詛一件は、『伊周が行った』とされる密告があったにせよ
本当に伊周が高階に命じて行わせたという証拠が明らかになった訳ではなかったのです
但し、この前年にも高階成忠は、道長同母兄道兼(みちかね)や道長を呪詛していたという疑惑が持たれており
禁断の封じ手である大元帥法を以って、道長を呪詛させようと企んだとしても不思議ではなく…
ここでも、伊周は容疑者扱いを受けることになったのです
そもそも、伊周・隆家が処罰の対象となった事件は、花山院との乱闘事件であったのですが
事件から僅か二ヶ月半ばかりで、余罪としては重過ぎる二つの容疑が重なってしまったのです
正直、花山院の輿(または院の衣袖に)に矢を射たことは、明らかに不敬罪に該当する訳で、この罪に限っては…
伊周・隆家も弁解の仕様がなく、露見した以上は、何らかの罪に問われることを覚悟していたと思われますが
後から出て来た、二つの呪詛疑惑に限っては
本当に彼等が主導して行ったのかどうか
大いに疑問の余地があると思われます
この直後、勅命により左遷が言い渡された時、伊周・隆家は定子の里第(りだい)である、二条北宮(にじょうきやみや)に
立て籠もって、容易に任地(流刑先と言っても良いですが)への出立に応じなかったのですが
この抗命行動こそが、『自分達は呪詛等は行っておらず、これ等は濡れ衣である』という意思表示であり…
中宮定子が体を張ってまでして、兄弟を庇おうとしたのも、ある程度は首肯されると思われます
しかし、中関白家には、状況を覆す術は残っておらず…
同年四月二十四日、伊周・隆家を罰する、一条の宣旨(せんじ)が下されたのです
続きは次回に致します