さてさて…
中宮定子(ちゅうぐうていし)の内裏退出と出家により…
一条帝(いちじょうてい)の後宮は、后妃(こうひ)不在の状態に陥ってしまいました
出家したことで、定子の中宮(正后)としての正当性に疑問が生じたことにより…
彼女が独占していた後宮に、有力公卿の『きさきがね』の娘達が、相次いで入内するに至ったのです
入内ラッシュの先陣を切ったのは…
大納言藤原公季(だいなごんふじわらのきんすえ)長女、義子(ぎし)でした
義子の父である公季は、道長の父兼家(かねいえ)の末弟で、道長とは十歳年長の叔父と甥の間柄でした
この公季について特筆されるのは、その母方の出自が極めて高貴であることでした
公季は九条流(くじょうりゅう)の祖である師輔(もろすけ)と、醍醐帝(だいごてい)第十六皇女である康子内親王(こうしないしんのう)との間に誕生したのですが…
この康子内親王の生母は、醍醐帝の中宮である穏子(おんし)で、醍醐の後を受けて即位した、朱雀(すざく)・村上(むらかみ)両帝とは同母兄妹の関係でした
残念ながら、康子内親王は公季を産んだ後、まもなく崩御してしまったのですが…
彼女の姉で、村上帝中宮である安子(あんし)は、嬰児の公季を引き取り、彼は宮中で育てられることになったのです
叔父にあたる村上帝もまた、公季を大層可愛がったみたいで、幼少期の彼は、臣下でありながら、安子出生の親王達と一緒に養育されるという、異例の待遇を受けて成長したのです
但し、成人に達してからは、公季も一般の貴族達と同じく、官界デビューを果たしたのですが、その高貴性の故であったのでしょうか…
彼の正妻は、醍醐帝第七皇子の有明親王(ありあきらしんのう)の娘(皇族身分である女王)で、その間に生まれたのが…
義子だったのです
即ち、義子は、父母が共に、醍醐帝の孫であり、血筋においては、これ以上ない位の高貴な生まれであったのです
一条帝の生母である、東三条院詮子(ひがしさんじょいんせんし)が、我が子である帝の后妃に望んでいた要件は
血筋の通貴性であり、正しく義子は、詮子が求めた条件に合致した女性であり
それ故に、真っ先に入内を果したと思われます
因みに、父親の公季は、長徳(ちょうとく)元年(995)に、多くの公卿達の生命を奪った疫病を切り抜けた人物でした
疫病が猛威を振るっていた時点では、公季は権中納言(ごんちゅうなごん)の一人に過ぎなかったのですが…
同じく疫病禍を生き残った道長が、政権を掌握したのと時期を同じくして
同年六月で大納言(だいなごん)に昇進その翌年の長徳二年(996)八月には道長の譲りを受けて、武官職のトップである
左近衛大将(さこんえたいしょう)に栄進を果したのですが…
義子が入内したのは、左大将昇進直前の、同二年七月の出来事でした
この段階で、太政官(だじょうかん)における、公季の序列は、左大臣道長と右大臣顕光(うだいじんあきみつ)に次ぐ、第三位で
あったのですが、甥である道長の長女彰子(しょうし)が、未だ入内適齢期でなかったこともあり
仮に、義子が一条の皇子を産み、公季が外祖父として孫の後見(うしろみ)を務めれば…
その出生の皇子は、次々期の皇位を継ぐ有力な候補となった可能性が髙かったと思われます
加えて、入内当時、義子は二十三歳で、中宮定子よりも二歳年長であり、当時十七歳であった一条帝の皇子を産む后妃としては…
六歳年長の義子はまさに適任であり、父である公季は勿論のこと、詮子周辺も懐妊を大いに期待していたのですが…
事は思惑通りには進まなかったのです
続きは次回に致します