さてさて…
花山院(かざんいん)との騒擾事件が明るみになったことで…
伊周(これちか)・隆家(たかいえ)兄弟は
恰も坂を転げ落ちるかの如く、あっという間に没落への道を辿ることになります
右大臣道長(うだいじんみちなが)の奸計により、一条帝(いちじょうてい)は、中関白家(なかのかんぱくけ)の兄弟達に対して
厳しい姿勢を取らざるを得なくなってしまいました
(闘乱事件から一か月弱の)長徳二年(966)二月五日、検非違使別当(けびいしべっとう)である小野宮実資(おののみやさねすけ)に対して
➀伊周邸の探索
②伊周の家司(けいし)及び郎党(ろうとう)の家
それぞれの探索を命じたのです
検非違使の主要任務の一つに、都の治安維持と犯罪者の捜索・逮捕があったのですが…
五位以上の貴族の邸宅が対象となった場合、帝の勅命(ちょくめい)を得た後に、捜索を行うという例外事項がありました
ところが…
今回の事件に際して、一条は勅許を待つことなく探索を先行させても良いという命令を出したのです
特例による捜査が断行された結果、伊周家司・郎党の家から武装兵や弓具等の武器が発見されたばかりか
数人の兵士が検非違使の追及を振り切って逃亡してしまったのです
伊周の邸宅でさえ、この様な状況でしたので、『天下のさがなもの』(荒くれ者)の異名を取っていた隆家の屋敷の様子については…
今更言及することはないと思います
隆家配下の郎党達は、腕に覚えのある荒くれ者達が多く、今回の花山院闘乱事件に限らず、道長従者との乱闘等、多くの物騒な
事件を引き起こしていました
更には、捜査直前に、伊周が邸宅に多くの武装兵(私兵)を抱えているという情報が漏洩していたのか
事件の捜索は、冒頭から強硬な手段を以って行われたのです
実資より、伊周達が武装兵や武具を抱えていたという報告を聞いた一条は
いよいよ、伊周達の侵した罪状は看過出来ないと判断したのでしょうか
同年二月十一日、事件を道長にリークしたと思われる蔵人頭斉信(くろうどのとうただのぶ)に
『伊周・隆家の罪状について先例を調査したうえで、報告せよ』という命令を道長等、公卿に伝達させたのです
ところで、斉信より一条の厳命が伝えられた時、公卿達は陣定(じんのさだめ)の最中だったのですが
この陣定の出席していた『黒光る君』こと実資は、命令が伝達された時の公卿達の様子について
『皆、首を傾けて嘆息していた』と日記『小右記』(しょうゆうき)に記しています
恐らく、件の陣定では、今回の捜査結果を受けて、如何に対処すべきか
等々の議論が行われていたと思われますが、一条の不退転の決意を秘めた命令が伝えられたことで、公卿達は
『とうとう、来るべき時が来てしまった』と感慨を等しくしたと思われます
この様に、一連の事件の捜査については
➀一条が主導
②道長と公卿達はその命令を受けて諸事決定する
という方式で進められたのですが…
一条自身が前面に立って捜査指揮を取らざるを得ない様に仕向けたのは、他ならぬ道長であり
一条は、最大のミウチ勢力である中関白家の勢力を、自ら削ぐことを余儀なくされてしまったのです
この一条の命令により、伊周・隆家の罪は明白となり、彼等の処罰は避けられない情勢となったのですが…
更に、悪いことは重なるもので
この後も、彼等(特に伊周)にとって不利な材料が、次々と白昼の下に曝されたのです
それは、既に第一級罪(花山院への不敬罪)の容疑者となっていた彼等に…
トドメの一撃(正式には二撃)を加えることになったのです
続きは次回に致します