さてさて…
中宮定子(ちゅうぐうていし)の無断出家という事態を受け…
一条帝(いちじょうてい)の後宮は、后妃(こうひ)不在という異常事態に陥りました
因みに、長徳(ちょうとく)二年(996)十二月に、定子は第一皇女である脩子(しゅうし)を出産することになるのですが
彼女が衝動的な出家を遂げた時点では、懐妊は判明しておらず、一条帝は皇嗣(こうし)を儲け得る唯一の后を失うに至りました
(もっとも、定子を愛する一条の想いは強く、この翌年には、定子母子との対面を果すことになります)
後宮に后妃がいなくなったことで…
政権担当者である道長(みちなが)、東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)は
早急に、定子に替わる新しい后妃の選定に入りました
本来ならば、入内(じゅだい)の大本命は、執政である、左大臣道長の長女彰子(しょうし)であったのですが…
漸く数えで十歳になったばかりの彰子は、未だ入内適齢期に達していませんでした
道長のみの事情を考慮すれば、彰子の成長を待つことも可能だったと思われますが…
円融皇統の国母である詮子や、当事者である一条は、その様な悠長な心境ではなかったのです
何故か云えば…
一条の父である円融院(えんゆういん)を初代とする、円融皇統(えんゆうこうとう)には…
一条以外の皇子(皇女も)が存在せず、一条は正真正銘の一人っ子であったのです
これに対して、円融院の同母兄である冷泉院(れいぜいいん)を初代とする冷泉皇統(れいぜいこうとう)に目を向けてみますと…
一条の東宮(とうぐう)である居貞親王(いやさだしんのう)は、既に東宮妃娍子(とうぐうひせいし)との間に、第一皇子敦康(あつやす)を儲けていました
居貞と娍子は琴瑟(きんしつ)相和する夫婦であった様で、この後も三皇子・二内親王の子宝に恵まれ、冷泉皇統には皇統を継ぐ
べき有力な皇子が複数存在していたのです
多くの後継者候補を擁していた冷泉皇統に比べ、円融皇統の男子は、今上帝たる一条のみで…
円融皇統関係者の喫緊の課題は、一刻も早く一条が皇子を儲けることでした
万一、皇子誕生を見ることなく、一条に不慮の事態が生じれば…
それは則ち、円融皇統の終焉に繋がる訳で、皇位は元来嫡流である冷泉皇統に一本化されることは、火を見るより明らかでした
この時、東三条院詮子は、『どの后妃でも良いから、兎に角一条の皇子を産んで欲しい』と偽らざる心境を吐露していますが
そうは言っても、彼女は新たに迎える后妃について、ある要件を付けていたのです
その要件とは
高貴な出自を有しているということで、明らかに中宮定子を意識していたのです
定子の祖父兼家(かねいえ)は、妻妾の家柄については、それ程高貴性を求めてはいませんでした
➀兼家の正室で、定子の父道隆(みちたか)・道兼(みちかね)・詮子(せんし)・道長(みちなが)達を産んだ時姫(ときひめ)
②兼家の妾妻で、道綱(みちつな)を産んだ道綱の母(『光る君へ』では寧子:やすこ)
二人は何れも藤原北家出身の受領の娘であり、三位以上の公卿(くぎょう)を輩出する家柄ではありませんでした
但し、四年が任期である受領は、中央政府から課されていた税徴収のノルマを達成さえすれば
後は際限なしの搾取し放題であったので
任期が終わって、都に帰る際には、相当裕福になっているという仕組みでした
『光る君へ』でも、筑前守(ちくぜんのかみ)となった藤原宣孝(ふじわらののぶたか)が…
『受領は大層うま味がある役職だ』とまひろ達に語っていましたが、兼家も受領階級の娘を(複数)妻妾に迎えることで
任地で荒稼ぎした父親達の経済的な後見(うしろみ)を期待していたと思われます
兼家の後継者となった道隆もまた、受領を歴任した中下級貴族の娘を妻妾に迎えていたのですが…
彼の正妻となった貴子(きし)は、受領階級ではあっても、藤原氏ではない(北家のみならず南家でもない)高階氏(たかしなし)の
出身でした
ある意味で、道隆の正妻選定基準は、父兼家とは聊か異なるものであったのですが、円融帝の女官として宮仕えをしていた
貴子の経歴を評価したうえでの、異例の正妻抜擢でした
関白正妻である、北の方に上り詰めた貴子は、宮仕えを通した自らの経験をもとに、定子や伊周等、子供達を養育したのですが…
特に、一条に入内した定子が主宰するサロンでは
➀(サロンの主である)中宮自らが積極的に前に出る
②女房達も内に籠るのではなく、進んで前面に出て、公卿や貴族達と交流する
という、従来の閉鎖的な後宮とは明らかに一線を画した、『開かれた後宮』の演出に一役買ったのです
これまでは違う、新しい風に包まれた後宮は、公卿・貴族のみならず…
定子の夫である一条帝を魅了中関白家(なかのかんぱくけ)の権勢を内側から支える役割を果たしたのです
この定子と中関白家が醸し出す後宮の雰囲気に、違和感を禁じ得なかったのが…
一条生母の詮子であり、我が子から疎外(既に成人していましたが)されてしまったという孤独感と閉鎖感も相まって…
定子やその実家である中関白家(ミウチにも拘わらず)への反発に繋がったと考えられます
同時に、藤原北家嫡流である北家兼家流の娘という、高貴さを自認していた詮子から見れば…
いくら同母兄である道隆の娘(姪)とはいえ、成り上がり者に等しい高階家を生母に持つ定子を…
我が子一条の正妻である中宮としては、受け入れ難かったのかもしれません
勿論、心中では『その様な狭い了見ではいけない』という想いもあった筈ですが
あからさまなミウチ贔屓の政治を行う兄道隆への反感も手伝い、その憤懣が定子にも向けられてしまったと思われます
そうなると…
➀『定子は我が姪ではあるが、成り上がり者である高階家出身であるのが、気に障ってならない』
②『定子が帝の皇子を産めば、あの高階家の血筋を引く皇子が、将来帝位に就くことになる』
③『その様なことを認めても良いのかいや認める訳にはいかない』
という結論に至るのは、必至であったと思われます
道隆の後継を担う関白人選において、詮子が甥である伊周の関白就任を殊更に妨害
更には…
定子にも冷たく接した背景として
定子の母方の出自の低さが原因であった可能性は髙く、のみならず
中関白家の専横を白眼視していた公卿達もまた
詮子と同じ想いを共有していたのです
長徳の変によって、中関白家の没落が確定
更に都合の良いことに、実家に対する無慈悲なる仕打ちに絶望した定子が、電撃的な出家を遂げたことで…
帝の正后としての正当性を喪失した定子は
『中宮としては死に体』と判断した詮子は、道長と協議の末、新しい后妃を我が子の後宮に入れることを決断したのです
そして、新しい后妃の有資格者となったのが
定子よりも、高い出自を有する公卿の娘であったのです
続きは次回に致します