さてさて…
蔵人頭斉信(くろうどのとうただのぶ)から
花山院(かざんいん)と中関白家(なかのかんぱくけ)兄弟との間で起きた、闘乱事件の報に接した右大臣道長(うだいじんみちなが)は…
直ちに、この一件を『黒光る君』こと小野宮実資(おののみやさねすけ)に伝えたのです
ここで、注目すべきは…
道長が闘乱事件を、直接一条帝(いちじょうてい)に報告せず、先ず実資に伝え、彼の口から帝に事件について奏上させたことです
当時、実資は、前年の長徳(ちょうとく)元年(995)八月、参議(さんぎ)から権中納言(ごんちゅうなごん)に昇進していたのですが…
それに先立つ四ヶ月前に、平安京の治安維持を管轄する、検非違使別当(けびいしべっとう)に就任していました
検非違使とは、都における警視総監に相当する役職で、長官にあたる検非違使別当(けびいしべっとう)には…
➀現職の中納言(ちゅうなごん、権中納言も同様)若しくは参議
②中納言・参議が本官で、武官職である、左右の衛門督(えもんのかみ)又は、左右の兵衛監(ひょうえのかみ)を兼帯
という、議政官(ぎせいかん)を構成する中堅の公卿が兼務という形で、就任することが常でした
実資の場合も、四年前の正暦二年(991)には左兵衛督(さひょうえのかみ)に就任、更に今回の別当拝命と同時に、右衛門督
(ひょうえのかみ)に転じており、検非違使を統率する資格を有していました
道長が件の事件を真っ先に実資に知らせた理由は、実資が当該事件を扱うことを職務とする、検非違使のトップであったことも
あったのですが…
ここに、道長の真の狙いが隠されていたのです
実資は謹厳実直な性格で知られており、加えて、一切の情実を廃する清廉潔白を以って職務にあたる人物でした
前年来からの、中関白家(なかのかんぱくけ)との政争が激しさを増す中、道長が政敵の弱点捜しを試み、密かに中関白家の内情等の情報集めに努めていたと思われます
政敵である伊周(これちか)が、故為光三の君(さんのきみ)の許に通っていることも、恐らく道長は三の君兄である斉信(ただのぶ)を通じて把握していた筈で、引き続き斉信には伊周の動向を探る様、指示を出していたと考えられます
そう考えますと、斉信が中宮定子(ちゅうぐうていし)のサロンを足繁く訪れていたことも、腑に落ちる訳で、同サロンの看板女房であった、ききょうこと清少納言(せいしょうなごん)への接近もまた、諜報活動の一環であったかもしれません
その様に網を張った折に、まさに中関白家兄弟と花山院(かざんいん)とのトラブルが勃発したのです
斉信の通報を受け、道長は伊周・隆家(たかいえ)兄弟を追い落とす好機が訪れたと判断した道長は、直ちに事件の捜査責任者
となる実資(検非違使別当)に事件を知らせたのですが、曲がったことの嫌いな実資ならば…
情状酌量等の手心を加えず、厳しく事件の捜査を指揮するであろうと冷静に読んでいたのでしょう
そして、事件についての一定の内々操作を終えた実資が、一条帝に事件全容を報告した際
恐らく、道長はその奏上の場に同席執政として一条に意見を具申したと思われます
その具申内容については、詳らかではないのですが、事件の裁断については…
全て一条に一任するという意思を明確にしたと考えられます
既に成人に達し(まだ十代半ばですが)、万機(ばんき)を総覧(そうらん)する立場にあった一条が、今回の事件の処断を下すことは当然であったのですが…
問題は、既に伊周・隆家達の問題行動が、検非違使別当である実資の把握する所となっていたことでした
もし仮に、道長は事件を他の公卿達に知らせないまま、一条に具申したうえで、事件の処断を一任したならば…
一条はミウチ同然の、中関白家兄弟に対して、何らかの手心を加えた可能性は髙かったと思われます
幼くして帝位に就いた一条にとって、最大の支援者は、中宮定子の実家である中関白家の面々でした
伊周・定子・隆家兄弟姉妹の父である道隆(みちたか)が、摂政又は関白在職時には、中関白家の権勢は他の公卿達を威圧していましたが…
同家と一条との関係は、頗る良好に推移しており、後宮の定子サロンの自由且つ知的な雰囲気は、学問好きの一条の心を捉えて離さず、中関白家は一条の家族と言い切っても良い存在でした
但し、病に侵された道隆が、伊周への関白移譲を奏請した時、一条は関白ではなく、伊周を内覧(期限付き)に就任させることに
留めたのですが、この事実の背景には
➀道隆兄弟への関白移譲を望んだ、国母の東三条院詮子(ひがしおさんじょういんせんし)の意向
②伊周に対する公卿達の人望のなさ
等の理由が挙げられるのですが、既に成人に達していた一条は、道隆亡き後は、関白を置かない親政(しんせい)を考えていた
と思われます
但し、伊周と関白競合に勝利した道隆同母弟道兼(みちかね)が、内大臣であった伊周の上席である右大臣であったこともあり
一条は道兼の関白就任を認めたのですが…
道兼が呆気なく亡くなった後の、伊周vs道長の関白争いでは…
道長を執政者に指名したとは言え、(伊周より下位の)権大納言の過ぎなかった彼を関白にすることはなく
その代わりに、准関白とも云うべき内覧ポストに任命したのです
この背景には、二度にわたり関白になり損ねた伊周への配慮もあったと思われますが…
一条の親政志向に因るものであるとも言えますね
何れにしても、一条は道隆亡き後も、引き続き中関白家に関白を任せることはなく、それによって、同家の政治的地位は
聊か後退を余儀なくされたのですが、定子の兄弟である伊周・隆家が、一条最大のミウチ勢力であることに変わりはなく…
道長長女彰子(しょうし)の入内が現実味を帯びない中、一条が中関白家を恃みとする構図に変化はなかったと考えられます
そうした思惑を秘めていた以上…
伊周・隆家が、事もあろうに、花山院の輿に矢を射るという不敬(死罪にされても文句は言えない)とも云うべき不祥事を起こした報を聞かされた一条の心中は、察するに余るのですが…
当初一条は、ミウチ同然である彼等に決定的なダメージを与えることなく、事態の穏便なる落しところ
若しくは…
何らかの罰を与えることは避けられないとは言え、その罪の量刑を出来るだけ軽くすることを摸索しようとしたかもしれません
中関白家を処罰、則ち失脚に追い込むことは、数少ない一条のミウチ勢力の弱体と政権基盤の動揺に繋がる訳で…
自分の首を絞めかねないことを認識しつつ、一条は難しい判断を迫られたのです
しかし、この点では、道長の方が遥かに強かでした
既に事件捜査の責任者である実資が、花山院闘乱事件を把握、その全貌を自らに奏上して来た時点で…
既に一条は、伊周・隆家を減刑する等の選択肢を失っていたのです
『捜査に手心を加えよ』等の指示を出すことは出来たのですが、清廉潔白な実資が、そんな情実的な指示を
唯々諾々を奉勅する筈がなく、却って一条の権威が損ねられるリスク(公卿の支持を失う)が懸念されたのです
(仮にその様なことをしたら、『小右記』は帝への文句の記述に数頁も費やされることになったでしょうね)
実は、これこそが、道長の真の狙いであり、一条が中関白家に配慮する裁断を行えない様にすべく…
自分が一条に報告せずに
➀先ずは実資に事件を知らせる
②彼に事件の予備捜査をさせたうえで、一条に上奏させる
③その場に同席して、事件を明るみにするか或いは闇に葬るか
の判断を一条自身に委ねる
という用意周到さを以って、一条の選択肢を狭めさせたのです
或る意味、道長は…
『今回の不祥事を、一条がどの様に裁くのか先ずは、お上(かみ)の力量を拝見させて頂こう
』
と思っていた可能性は髙く
表面上、中関白家失脚に手を汚すことなく、彼等に最も近しい一条に汚れ役を担わせるという…
惨酷で且つ狡猾な手段を用いて、一条に決断を迫ったのです
そして、事件から十日ばかりが過ぎた、長徳二年(996)一月二十五日の除目(じもく)において…
道長は伊周が座する席の敷物である円座(わろふざ)を取り払わせたのです
この措置は…
➀大事な儀式である除目に伊周の参加を認めない(おそらく伊周本人は欠席していたかもしれませんが…)
②伊周と隆家は罪人(容疑者)として、近く捜査の対象になることを、他の公卿達に知らしめた
③事件が世上の噂に昇る始めた頃合いを見計らったうえで、➀の挙に出た
上記の狙いがあったと思われ、これにより…
一条は本格的な事件の捜査を指示せざるを得なくなったのです
そして、翌月に入り、伊周・隆家の従者達の家宅捜索が開始
まさかの一条帝の主導によって、中関白家は追い込まれて行くことになるのです
続きは次回に致します