さてさて…
道兼(みちかね)の最期の日々についてのお話
念願の関白に任命された時の、道兼の動向については、歴史物語の『大鏡』(おおかがみ)に詳しく描かれています
関白就任の報に接した時、当の本人である道兼は勿論、彼に仕えていた面々も慶びに包まれたのです
関白として貴族社会の頂(いただき)に立った彼は、日頃より自分が温めていた政治構想を実現すべく、相当意気込んでいたと思われれます
彼の関白就任は、(中関白家〈なかのかんぱくけ〉を除く) 北家九条流(ほっけくじょうりゅう)からも歓迎された様で
特に末弟の道長が、真っ先に祝意を表明したとされています
ところが…
関白宣旨(かんぱくせんじ)が下りる以前より、道兼の体調に変化が生じていたのです
始めの頃は、単なる風邪か、若しくは疲れに依るものと思い、気には留めていなかったのですが、徐々に症状は重くなりつつありました
邪気に当たったのかもしれないとして、方違え(かたたがえ)等をして様子を見たのですが、一向に状況は変わらず、結局は邸宅のある、二条町尻邸(にじょうまちじりてい)に戻ったのです
実は、この頃、道兼の正妻である、藤原遠度娘(ふじわらのとおかずのむすめ)は臨月を迎えていました
もし、生まれる子が女児であれば、その子は将来の『きさきがね』として、帝の後宮に入内する可能性が髙く、道兼も正妻の出産に立ち会うべく、方違えを中断して邸宅に帰ったと思われます
そんな中で、関白宣旨がもたらされた訳で、道兼は直ちに御礼言上のために参内することを決めたのです
但し、体調は改善するどころか、どんどん重くなるばかりで、周囲は…
『病平癒のための加持祈祷を行うべきでは』と奨めたのですが、道兼は…
『皆が(自分の関白就任に)慶んでいるのに、祈祷等はするべきではない』
として、関白宣旨が下りた五日後の五月二日に、慶賀を述べるべく宮中に参内一条帝(いちじょうてい)に拝謁したのです
晴れの舞台を迎え、気力を振り絞っての参内でしたが、最早気力だけではカバー出来ず、退出する際には、周囲に支えられなければ動きも儘ならぬ状態だったのです
さて、道兼邸では、主人の関白就任に沸き返っており、就任を祝う客でコッタ返していたのですが
その様な大盛況の中、参内していた主人が青色吐息の状態で帰って来たので、皆は驚いたと思われます
帰宅した道兼は、忽ち病床に臥せることになったのですが、周囲は…
『まさか、このまま関白様はお亡くなりになるのでは…』と心配の声が出つつも
ひっきりなしに訪れる訪問客の対応に追われていたのです
こうした邸宅内が喧噪に包まれる中、主の道兼は病臥していたのですが、容態は日に日に悪化していったのです
主が病臥中で、万事の差配が出来ない故、道長が連日道兼邸を訪れ、家人達にあれこれ指図をしていたのですが…
刻一刻と病状が悪化する兄の姿に、道長は不安を押し隠すのに必死だったと思われます
そんな中…
『黒光る君』こと、小野宮流実資(おののみやさねすけ)が、関白就任のお祝を述べるため、道兼邸を訪れたのです
続きは次回に致します