さてさて…
長徳(ちょうとく)元年(995)四月二十七日、一条帝(いちじょうてい)は
『右大臣道兼(うだいじんみちかね)を関白に任命する』という宣旨(せんじ)を下しました
前関白の兄道隆(みちたか)の薨去から、半月余りが経過していたのですが、甥である内大臣伊周(ないだいじんこれちか)との競合の末
事態は、道兼の関白就任で落ち着いたのですが…
実は、この時、道兼は、当時流行していた疫病に罹患していたのです
前年末より西国から流行を初めていた疫病の勢いは、翌年に入っても終息する所か…
いよいよ猖獗(しょうけつ)を極めていました
疫病禍は平安京をも席捲 洛中洛外を問わず、道端には無数の死骸が溢れ、死臭が漂うという惨状でした
疫病による犠牲者は、庶民ばかりではなく、官人・貴族、更には国政を議する公卿達も例外ではなく、新関白道兼もその毒牙に
かかってしまったのです
ここで興味深いのは、既に病に侵されていたにも拘わらず、何故道兼に関白宣旨が下されたのか
という点であります
道兼が病気であることが分かっていたならば、一旦は関白宣旨を下すのを保留したうえで、その回復を待ってから宣旨を出すのが
順当であると思われますが、病気療養中(しかも重篤)の道兼に対して、敢えて関白宣旨が下された背景を考えるならば…
恐らく、一条帝生母で、道兼の同母妹の東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)の強い意向があったと思われます
天皇家の家長であり、実家にも強い影響力を有していた彼女は、予てより、『関白就任は兄弟順にが然るべし』という考えを持っており、したがって…
『長兄道隆の後任関白は、甥(道隆嫡子)伊周ではなく、弟道兼、更にはその弟道長(みちなが)の兄弟に継承されなければならない』
という意向を一条帝に伝えていました
国母(こくも)である女院の意向は、たとえ帝たる一条でも蔑ろにする訳にはいかず、愛する中宮定子(ちゅぐうていし)の
『兄伊周を関白に』という懇願にも拘わらず、彼は母の意向を受け容れたと思われます
但し、前回の記事でも説明致しました通り、太政官序列においては、道兼は伊周の上席(右大臣)で尚且つ、年長である故に
道兼の関白就任は至極順当で、貴族社会が納得出来る、落とし所であったのです
もし仮に、病気であることを理由に、道兼に関白宣旨を出さなかったなら…
その代わりとして、浮上するのは、当時の太政官席次で、藤原氏ナンバー2の内大臣伊周であり、そうなれば、詮子が提唱する
兄弟世代による、関白相承構想が瓦解することになり、彼女としてはそれだけは回避したかったのです
さらに付言するならば、兄弟順ならば、道兼の病全快を待つ、若しくは彼を飛ばして、道長を関白にする選択肢もあったと思われますが…
前者については、既に回復は絶望的であるという医師からの報告が奏上されていた可能性が髙く、ましてや関白(内覧)の空位期間をこれ以上延長させることは難しかったのでしょう
後者についても、当時の道長の官職は権大納言(ごんだいなごん)であり大臣ではなく、道兼と内大臣伊周を飛ばして
大臣でない彼を、いきなり関白にする訳にはいかなかったと思われますね
但し、この時の詮子が、最善と考えていた構想は
自分との関係が最も良好であった、同母弟の道長が関白に就任することであったので
それを実現させるには、先ずは兄弟で関白を相承したという既成事実を作らなければならず、関白職を末弟の道長にまで繫げる為には
病気であろうと、まもなく亡くなることが予想されようとも、道兼には
現職関白として、あの世に旅立って貰う必要があったのです
後年にも伝えられる、『七日関白』(なのかかんぱく)誕生秘話であるのですが、かって兄道隆との競争に敗れながらも
漸く念願の関白になることが出来た道兼の心中を想えば…
人の運命の儚さを嘆くと共に
そうした感情を一切顧慮しない、政治の残酷さに震撼させられます
次回は道兼の最期の七日間について、お話し致します