さてさて…
道隆(みちたか)の病が篤くなり、中関白家(なかのかんぱくけ)の屋台骨が揺らぎ始めた
正暦(しょうりゃく)六年(995)二月十七日
右大臣道兼(うだいじんみちかね)の嫡男兼隆(かねたか)の元服(げんぷく)が執り行われました
ところで、道兼は、正妻である藤原遠度(ふじわらのとおかず)の娘の間に、四男一女を儲けていました
正妻の父である遠度は、道兼の父兼家(かねいえ)の異母弟で、道兼と遠度娘は従兄妹という、近親同士の結婚でした
因みに、彼女が産んだ四男は
➀長男福足(ふくたり)
②次男兼隆
③三男兼綱(かねつな)
④四男兼信(かねのぶ)
上記の通りでしたが、嫡男と目されていた第一子の福足が、永祚(えいそ)元年(989)に夭死したため
次男の兼隆が嫡男になっていました
元服時、兼隆は七歳で、普通に考えれば、元服にはまだ早かったですが、父道兼がこの時点で兼隆の元服を行った背景には…
長兄道隆の後継者と目されていた、内大臣伊周(ないだいじんこれちか)の有力な対抗馬になりつつあった
道兼の家を継ぐ嫡男のお披露目であると同時に…
次期関白の座を狙う、道兼派の決起集会でもあったと思われます
事実、右大臣家の嫡男の晴れの日を祝うべく、道兼邸には多くの有力公卿が出席したのです
道兼とは提携関係にあった、小野宮流(おののみやりゅう)からは、彼の養女を正妻としていた公任(きんとう)と『黒光る君』こと実資(さねすけ)が参入したのを始め
大納言二人、中納言四人、参議(さんぎ)五人、(議政官ではない三位)散三位(さんさんに)三人という、錚々たる顔触れが列席したのです
因みに、対立関係にあった中関白家からは、病気療養中の主人道隆と伊周の出席はなく、同家からは伊周の異母兄で道隆庶長子の道頼(みちより)と、同母弟の隆家(たかいえ)が出席していました
重篤の病である道隆は止むを得ないにしろ、その嫡男の伊周が欠席したことからも…
次期関白を巡る、道兼vs伊周の対立の図式が、白日の下に曝されたと言えますね
ところで、元服式の主賓は、元服する男子の頭に冠(かんむり)を載せる役を担う、加冠役(かかんやく)でした
加冠役は、別名烏帽子親(えぼしおや)とも呼ばれ、成人した子供の親代わりとして、新成人を後見することになるのですが…
右大臣家の嫡男兼隆の元服の加冠役を務めたのは、彼の叔父である権大納言道長(ごんだいなごんみちなが)だったのです
本来ならば、我が家の次代を担う嫡男の元服ならば、当時の貴族社会で一番高い地位にある公卿が、加冠役を務めるべきでしたが…
貴族社会の首座である、関白道隆(兼隆伯父)は重病の床に伏しており、とても元服式に参加する状況ではありませんでした
道隆が駄目ならば、彼の嫡男で内大臣の伊周に加冠役を依頼するのが順当であるのですが…
兼隆の父道兼とは次期関白を競合している状況下では…
加冠役はおろか、元服の儀自体にも参加する訳にはいかなかったのでしょう
(兼隆の父道兼にとって、伊周の欠席は想定内だったと思われます)
そうなれば、元服式に参列した公卿メンバーの最上位は、権大納言道長になる訳で、必然的に彼が加冠役を担ったのです
(先任の大納言が欠席していたこと、また、同じ権大納言でも中関白家の庶子である道頼では、荷が重かったと思われますね)
こうした事情を踏まえて、道長が兼隆の加冠役を務めることになったのですが、この大役を彼が務めた背景には…
道長こそが、道兼派のナンバー2であるということを、貴族社会に認知させる意図もあったのではないか
とタケ海舟は考えています
道隆の懊悩を発端に
中関白家と、道兼を盟主とする反中関白家との政治抗争が、いよいよ激しさを帯びつつあった最中の、兼隆の元服には…
こうした、政治的な思惑を有していたのです
因みに、この元服式から約一か月後に、道隆は薨去
後継関白には道兼が就任したのですが…
関白宣旨が下ってからは十日、就任御礼の参内からは七日で、道兼は無念の死を遂げてしまうことになります
父が病に斃れずに、長期政権を維持していたならば、兼隆は関白嫡男として、次の関白への道も開けた筈だったのですが
父の急死により、輝かしい前途を約束されていた彼の未来は、忽ちにして閉ざされてしまったのです
但し、道兼に代って、政権担当者となった道長は、甥で烏帽子(えぼしご)でもある、兼隆を見棄てることはありませんでした
道長の甥達の中で、道隆男子の伊周・隆家兄弟は、道長との政争を繰り広げた挙句、没落の道を辿ったのですが…
(道兼息子の)兼隆は、叔父と干戈を交える様なことはなく、生涯一貫して道長に従う姿勢を崩しませんでした
道長も甥の将来には十分に配慮したみたいで、飛び抜けた出世は果さなかったものの
最終的に、兼隆は正二位中納言(しょうにいちゅうなごん)に昇進
公卿としては、それなりに恵まれた公的人生を過ごすことが出来たと言えます
(但し、素行については、あまり宜しくはなく、しばしば問題を引き起こしてはいますが…)
因みに、兼隆の妻の一人となったのが…
紫式部こと、まひろの一人娘である、賢子(けんし)であります
『光る君へ』では、まひろと道兼との因縁が、前半の大きなテーマの一つになっていましたが
今後の劇中において、子供世代の関係がどの様に描かれるのか
楽しみにしたいですね
本日はここまでに致します