道兼の関白就任(道長との提携) | タケ海舟の歴史事件帳

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さてさて…

 

本日の『光る君へ』は、いよいよ前半最大のクライマックスとなる、長徳の変(ちょうとくのへん)の顛末が描かれます注意

 

勘違い(本当にそうだったのかはてなマーク)だったとは言え耳

 

花山院(かざんいん)御輿(みこし)に矢を射かけるという、伊周(これちか)と隆家(たかいえ)余りにも無分別な行動は…

 

状況によっては、政権復帰の可能性が十分残されていた中関白家(なかのかんぱくけ)の未来を、自分達自身で破綻させてしまう結果を惹起させて

しまいました宝石白

 

それのみならず、彼等は妹であり姉でもある中宮定子(ちゅうぐうていし)巻き込むという愚を犯してしまった挙句…

 

事態は、彼女の落飾にまで発展してしまうのですキューン

 

定子の出家は則ち、帝の后という地位を自分で放棄したことに他ならず、ここにおいて…

 

中関白家は政治・後宮の何れにおいても、完全に没落するに至ったのですドクロ

 

道隆生前時には、彼の権勢を憚り他の公卿達は誰も娘を一条帝(いちじょうてい)の後宮に入れなかったのですが

 

唯一の后たる定子の出家により、公卿達は后妃不在となった後宮に、それぞれの『きさきがね』の娘を入内させることになるのですサイコロ

 

当然ながら、政敵の自滅により、政権トップの地位が固まった道長も、自分の娘を後宮に入れる算段をしていたのですが…

 

この時点で、道長の長女彰子(しょうし)まだ十歳に満たず入内させるにはまだ数年を要したのですイラッ

 

その様な状況に乗じて、一条後宮に有力公卿達の娘が、相次いで入内するのですが、道長はこれを黙認する以外にはなく指輪

 

暫くは焦燥感を募らせつつ彰子の成長を待つことになるのですうずまき

 

さて、今夜のドラマを楽しみにしつつも…

 

本日は、道隆亡き後の後継関白決定の話を致したいと思います流れ星

 

道隆薨去に伴い、『病間』(びょうかん)という条件付きだった、伊周の内覧(ないらん)は解かれ、政局は関白後任の人選へと移っていましたキラキラ

 

前回でもお話した通り、次期関白は、道隆同母弟の右大臣道兼(みちかね)と、道隆嫡男の内大臣伊周の何れかと目されていました虫めがね

 

このうち、伊周は短期間ながらも准関白たる内覧を務めた実績があり、一条帝の意向次第ではもやもや

 

本格的な関白就任、若しくは内覧の継続が想定されており、現に、伊周妹の定子は父の死穢(しえ)に触れたにも拘わらず

内裏に還御して一条に伊周の関白就任を懇願していたと思われますあんぐり

 

但し、太政官の席次では右大臣道隆が上席であり、加えて、一条の外伯父である道兼は、摂関就任要件も満たしていましたくちびる

 

更には、女院(にょいん)として、一条に対して強い影響力を有していた、東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)が下三角

 

関白就任は兄弟順で継承すべき!という強い意向を有していたため、一条も母女院のそれを受け容れざるを得ませんでした叫び

 

詮子ばかりではなく、貴族社会の総意も同様で、それだけ道隆生前より、数々の先例破りと専横を重ねてきた中関白家への反発が如何に強かったことが窺知されます注意

 

それでも、道隆死後から後任関白決定まで、二週間以上を要したのは、中関白家側の執拗な工作や、(還御により)定子が撒き散らした内裏の穢れにより、政務や儀式進行に支障が生じたことも、理由として挙げられるでしょうねキラキラ

 

その様な事情を経たものの…

 

長徳(ちょうとく)元年四月二十七日一条帝は右大臣道兼に対してFREE

 

『万機(ばんき)を関申(あずかり)申すべしビックリマーク関白宣旨(かんぱくせんじ)を下したのです星

 

更に翌日には、道兼に藤氏長者(とうしちょうじゃ)の宣旨も下され、ここにおいて道兼は関白と氏長者に就任したのです上矢印

 

結局の所、後任関白は納まるべき所に納まった感があったのですが、道兼が兄道隆に次ぐ藤原氏公卿のナンバー2である右大臣であったことが、大きく物をいったと思われますOK(伊周はナンバー3の内大臣)

 

因みに、道兼の関白宣下と同日には、同母弟権大納言道長(ごんだいなごんみちなが)左近衛大将(さこんえたいしょう)

任命されているのですが…

 

この四日前に、前任者小一条流済時(こいちじょうりゅうなりとき)病のため左大将を辞任したことを受けた後任人事でしたOK

 

左大将とは帝の身辺警護や宮中守衛を任務とする、武官職の最高位であり、藤原氏の中の有力公卿が、本官と共にこの地位を

兼任することになっていました王冠1

 

空席となった左大将に、伊周ではなく道長が任命された背景には、道兼の政権構想において…

 

『ナンバー2は道長!という考えが、固まっていたことの証左であると思われます満

 

道隆懊悩以前より、長兄との対立を深めつつあった、道兼と道長は、同母姉妹である東三条院詮子と共に、反中関白陣営を形成

していました星

 

道兼は、父兼家(かねいえ)摂政就任以後反主流の側に追いやられていた小野宮流(おののみやりゅう)の公任(きんとう)・実資(さねすけ)と連携する一方で合格

 

道長は、姉詮子との親昵な関係を梃子として、自身の邸宅である土御門殿(つちみかどどの)を彼女の里内裏(さとだいり)に提供パー

 

予てより、中関白家との折り合いが悪くなっていた詮子は、女院名の由緒となった東三条殿(ひがしさんじょうどの)ではなく

土御門殿で日常生活を送ることが多くなっていましたキラキラ

 

国母である東三条院と提携した兄弟は、遠からず訪れる長兄の死を見越した政局における対応を、協議していた筈で…

 

三者による合議で、『次期関白は道兼であるビックリマークという結論が出ていたと考えられますくちびる

 

その様な、道兼・道長兄弟の深昵な関係の証左こそが…

 

長徳元年二月十七日に執り行われた道兼嫡男の兼隆(かねたか)元服式において虫めがね

 

加冠(かかん)の役を、道長が務めたという事実でした100点

 

続きは次回に致しますOK