さてさて…
既に持病と化していた、関白道隆(かんぱくみちたか)の飲水病(糖尿病)は
正暦(しょうりゃく)五年(994)十一月頃より、その病状が悪化しつつありました
もっとも、道隆は以前より、自身の体調が思わしくないことを知悉していました
その証左が、正暦五年八月の除目(じもく)による、嫡男伊周(これちか)の任内大臣であったのですが…
道長(みちなが)を含む、大納言三人を超越した、強引な昇進は、他の公卿達の反感を買ってしまったのです
自分が長く生きられないことを悟っていた道隆は、可能な限り、伊周の官位上昇を図るべく…
強引の上に、更に強引の上塗りをするかの如く、息子を昇進させたのですが、任内大臣を果したことで
我が子を次期関白に据える条件が、ほぼ整ったと考えたでしょう
以前、兼家(かねいえ)が、円融院(えんゆういん)の反対を押し切る形で、道隆の任内大臣を実現させたのですが
この一年後に、道隆は兼家より関白職を禅譲されており、則ち、これ以降、内大臣は次期摂関が就任する大臣職という
先例が出来上がったのです
(勿論、例外もありましたが)
伊周の内大臣昇進から二ヶ月後、道隆の病状が悪化したのですが…
当初彼は、自らの体調不良は、何者かの呪詛(じゅそ)によるものではないかと考えた様で
真っ先に疑いの目を向けたのが、同母弟の道兼(みちかね)でした
何故、道兼が疑われたのか
それは、この時点での太政官(だじょうかん)の序列が影響していたと考えられます
伊周の内大臣昇進が図られた発端は
正暦四年(993)七月、道長正妻倫子(りんし)の父で、長く左大臣を務めていた、源雅信(みなもとのまさのぶ)が
七十四歳で薨去したことにありました
左大臣在職十五年を誇った雅信の退場は、公卿を始め貴族達に、哀悼の意を以って迎えられたのですが、直ちに雅信の後任の
左大臣が決まることはなく、漸く太政官の新しい陣容が固まったのは…
雅信の死から一年以上が過ぎた、翌五年十一月のことであったのです
後任の左大臣には、雅信の同母弟で右大臣だった重信(しげのぶ)が
重信昇格に伴う、後任の右大臣には、内大臣だった道兼が、それぞれ昇格という形で就任しました
ここまでは、太政官序列に則った、順当な人事だったのですが、道兼後任の内大臣に…
二年前に権大納言になったばかりの伊周が、まさかの昇格
先任大納言の朝光(あさてる)・済時(なりとき)を始め、権大納言同期の道長が、抗議の意志表示として
翌年正月に催行された、一条帝(いちじょうてい)の生母東三条院(ひがしさんじょういん)に対する、朝觀行幸(ちょうがんぎょうこう)をボイコットしたのです
さて、件の人事において、道兼は太政官序列の第二位に躍進した訳で、この時点では第三位である伊周の上位を占めていました
勿論、事実上のナンバー1は、太政官の枠組みから独立している、関白道隆であったのですが…
もし仮に、道隆に不測の出来事が生じた場合
いくら伊周が内大臣でも、道兼が右大臣である以上、彼を差し置いて伊周を関白に据えることは難しかったと思われます
道隆がなお、十年余り健在だったら、伊周への禅譲の道を作る時間もあったと思われますが
既に身体を、病魔に蝕まれていた道隆には、残された時間は殆どなかったのです
そうしたジレンマの中で、危惧していた自らの病勢増進を受け、道隆は…
➀自分が亡くなって、一番得をするのは道兼だ
②あいつが陰陽師(おんようじ)に命じて、自分を呪詛させているのではないか
と弟に疑惑の目を向けたと思われます
確かに、この時点で道隆が亡くなって、最も得をするのは道兼である訳で、道隆が疑うのも無理からぬことだったのですが…
あくまでも、風評や憶測の域を脱してはおらず、程なく自然消滅の形となったのです
(疑われた道兼にしてみれば、どんでもない話でしたが…)
但し、この翌年、実際に道隆が薨去した際、後継関白は道隆が推した伊周ではなく、道兼になったことからも
当時の摂政関白は、年長の兄弟から順番に就任するというルールが、暗黙裡のうちに出来ていた可能性があったかもしれず…
次の関白は道兼であることは、貴族社会の間では当然視されていたと考えるのは、的外れではないと言えます
道隆が、それまでの兄弟順というルールを破ってまで、我が子伊周に関白を譲ろうとした意図は
中関白家(なかのかんぱくけ)の繁栄の継続に他ならず…
正暦六年(995)一月早々に、次女原子(げんし)を東宮居貞(とうぐういやさだ)の後宮に入侍させたのも、そのための有効な一手だったのです
この様に、徐々に不穏な様相を孕ませつつも、正暦五年が過ぎ
翌正暦六年は、病を理由に、正月二日の朝觀行幸を不参した道隆に対する、東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)の憤怒で幕を開けたのです
中関白家に対する公卿達の反発は、激化の一途を辿り…
朝觀行幸と同日に開催された、中宮定子(ちゅうぐうていし)主宰の宴会には、左右大臣が早期に退席
のみならず、本来は中宮大夫(ちゅうぐうたいふ)として、この儀式を取り仕切る立場の道長に至っては
何と、職務を放棄するという有様で、兼家一族の不協和音は、誰の目にも明らかでした
一方で、同月に伊周は、任内大臣の大宴(だいきょう)を行うべく、準備を進めていたのですが…
同月九日に、道隆が新造していた二条第南家(にじょうだいなんけ)が焼亡
逆風吹く中、伊周は同月二十ハ日に、(二年前に焼亡・翌年新築した)東三条殿南院(ひがしさんじょうどのみなみいん)で大饗を
催したのですが…
無理を重ねてまでも強行した、任内大臣大宴も
左右大臣ばかりか、大納言達も出席せず、大納言では唯一参加した、伊周異母兄の道頼(みちより)が、ミウチにも拘わらず
主賓の席に着くという、異常な雰囲気の中で行われたのです
(因みに、中納言や参議は参加していますが、『黒光る君』こと、参議実資(さねすけ)は出席していません)
新年に入り、中関白家の関係者が主宰する儀式への不参加が相次いだ背景には、関白道隆の健康状態悪化が明らかになったことが挙げられるのですが、国母の東三条院詮子が、事実上の不信任を道隆に突きつけたことも、大きな要因だと言えますね
宮中への参内にも途切れ途切れになりつつあった道隆は、一連の憂慮すべき情勢を打開すべく
伊周への政権移譲の動きを本格化することになるのです
それは、自分に残されていた時間との勝負でもあったのです
本日はここまでに致します