さてさて…
先週の『光る君へ』では、兄道隆(みちたか)・道兼(みちかね)の後を受け、道長が政権担当者となるまでが描かれました
次週以降は、前半最大のヤマ場とも言える、長徳の変(ちょうとくのへん)
自滅と言っても過言ではない、不祥事を重ねた内大臣伊周(ないだいじんこれちか)は、弟の中納言隆家(ちゅうなごんたかいえ)と共に左遷の憂き目に遭い
道隆死後から僅か一年余りで、栄華を極めていた中関白家(なかのかんぱくけ)は没落してしまいます
但し、中関白家の落日は、道隆の在世中よりその兆しがあったのです
あれほど呆気なく、転落の坂を転げ落ちることになった、最大の原因は…
大黒柱の道隆の不摂生(大酒飲みがたたっての飲水病)による早世であったことは、論を俟たないのですが
一族の繁栄を最優先とした、その強引な政治手法が、他の公卿達や貴族社会から総スカンを喰らったことが、致命傷となった
のです
病を自覚していた道隆は、自分が健在なうちに、嫡男の伊周を後継にすべく
(父兼家〈かねいえ〉が自分に対して行ったのと同様に)
常識では考えられないスピードで、昇進させました
ところで、伊周は下記の様な昇進コースを辿りました
蔵人頭(くろうどのとう)⇒参議(さんぎ)⇒権中納言(ごんちゅうなごん)⇒権大納言(ごんだいなごん)⇒内大臣(ないだいじん)
父道隆には、蔵人頭と参議の経験はなかったのですが、兼家が摂政となった時、彼は非参議(ひさんぎ)ながら従三位右近衛中将(じゅさんみさこんえこんのちゅうじょう)で、年齢も三十半ばに達していました
そこから道隆は、もの凄いペースで内大臣にまで駆け上がったのですが、他の公卿達からの反発はあったにせよ、それなりも経験(但し武官職中心ではありましたが…)を積んでいたこともあり、一応貴族社会には受け容れられてはいたのです
但し、伊周の昇進年齢は、(若いといわれていた父よりも)更に若く…
➀蔵人頭(くろうどのとう)⇒十七歳
②参議(さんぎ)・権中納言(ごんちゅうなごん)⇒十八歳
③権大納言(ごんだいなごん)⇒十九歳
④内大臣(ないだいじん)⇒二十一歳
正直、あり得ない昇進ぶりであり、道隆の強引なまでの引き立てが知悉出来ます
これ程の急ピッチで出世した訳ですので、当然ながら彼よりも相当年長である先輩公卿の多くが
若造に等しい伊周に官位を追い越されることになったのです
参考までに見て参りますと、②の権大納言昇進では五人、④の内大臣では、先輩の大納言三人を追い越しているのですが…
内大臣就任の一年前には、五人越えで、正三位(しょうさんみ)に昇叙(しょうじょ)しています
即ち、正暦(しょうりゃく)五年(994)の段階で、二十一歳の伊周は、正三位内大臣に栄進
この内大臣は、父道隆が関白就任前に就任していた官職であり、以後…
この内大臣就任を経て、摂関になるというコースが定着することになるのです
但し、関白の嫡男だからいう理由で、大した実績もなく、尚且つ年少の伊周に官位を追い越された公卿達の憤懣は激しく
特に、内大臣就任に対しては、、最早我慢の限界に達してしまったのか…
追い越された三人の先任大納言は、宮中の政務や儀式を欠席することで、抗議の意志を鮮明にしたのです
その三人の中に、伊周と同時に権大納言に昇進した道長が含まれていたのです
因みに、道長以外の二人は誰かと言えば
道隆の良き酒友達であった、朝光(あさてる)と済時(なりとき)のベテラン大納言でした
多くの敵を作ってしまっていた道隆にとって、彼等は数少ない友好的な公卿であったのですが…
二十一歳の伊周に追い抜かれたのは、流石に堪えたのかもしれず、翌正暦六年(995)始めの儀式を欠席しています
もっとも、ご存知の通り、正暦五年は九州太宰府(だざいふ)に上陸した天然痘が、都に襲来多くの犠牲者を出したのですが…
公卿達の犠牲者の中に、件の朝光・済時も含まれており、もしかしたら、この頃より二人は身体の異常を生じさせていたのかも
しれませんね
さて、彼等が欠席した行事とは…
正暦六年正月の、一条帝(いちじょうてい)による、東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)の許への朝勸行幸(ちょうがんぎょうこう)でした
朝勸行幸とは、帝が父(院)や母(皇太后・女院)を訪問する儀式なのですが、既に父である円融院(えんゆういん)は崩御しており、生母の東三条院が一条唯一の親であったのです
一条の元服、中宮定子(ちゅうぐうていし)の入内に伴い、それまで内裏に同居文字通り、一心同体で一条を支えてきた詮子も
この頃は内裏を退出して、里第(りだい)で生活をしていました
里居(さとい)と言うならば…
則ち、女院号(にょいんごう)の由緒でもある、東三条殿(ひがしさんじょうどの)で生活していたのか
と考えるのが普通ですが、兼家の本邸であった東三条殿は、その死後は後継者たる道隆に譲られていました
兄の中関白家との関係が悪かった詮子は、東三条院殿には寄り付かず、同母弟の道長が婿入りしていた土御門殿(つちみかどどの)に滞在することが多かったのです
その土御門殿に、一条帝は朝勸行幸を行ったのですが
詮子に里第を提供していた道長は、(朝光・済時共々)この行幸に参加しなかったのです
自分の邸宅(正式には、道長正妻倫子(りんし)が伝領していますが)が、対象の朝勸行幸に参列しないのも、聊か不自然ですが
(果たして道長は、この時どこで何をしていたのでしょうかね)
因みに、右大臣に昇進していた道兼(みちかね)と内大臣伊周は͡、一条帝に供奉していたのですが…
本来なら、この席に出席するのがマストである、関白道隆が不参加だったのです
実は、この前年末より、体調悪化が顕著となっていた道隆は、正月の朝勸行幸を欠席することを一条帝に申請
一条もこれに承諾を与えていたのですが…
事前に関白の不参加を知らされていなかったのか(知っていたかもしれませんが)
東三条院詮子は関白の欠席に激怒
相当激しい口調で道隆を非難したのです
詮子にしてみれば、溜まりに溜まっていたこれまでの鬱憤が、関白不参という事態を導火線に、爆発してしまった感があったのですが…
母である女院に対して、帝が新年の挨拶をするという、晴れがましい儀礼の場を凍り付かせる様な事態が惹起してしまったのです
道隆の欠席を承認していた、一条の顔が潰される結果となったのは、言うまでもありませんね
こうして、燻っていた中関白家と東三条院との不協和音が、白日の下に曝された訳で…
道隆の病状の深刻化も手伝い、政局の焦点は、道隆の後継を巡る虚々実々の駆引きへと移って行ったのです
本日はここまでに致します