兼家薨去直後の道兼(史実によると) | タケ海舟の歴史事件帳

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さてさて…

 

昨日の『光る君へ』第十五回放送は、随分と盛り沢山な内容でした凝視

 

どの場面も、見逃せなかったのですが、何と言っても一番だったのは?(タケ海舟的にですが雲)

 

父兼家(かねいえ)に見放されて、自暴自棄になっていた道兼(みちかね)が、道長の説得を受けて、立ち直るシーンでしたパー

 

正直な所、この様な展開になるとは思わず、それも、あれだけ確執があった道長が兄を救うとは

 

本当に驚きを禁じ得ませんでした注意(皆様も同じだったのでは?)

 

史実から見れば、永祚(えいそ)元年(989)に、道隆(みちたか)が内大臣(ないだいじん)になった時点で耳

 

摂政兼家の後継は彼に定まっており当時権大納言であった道兼が、兼家の後継となる目は無くなっていましたダッシュ

 

平安時代以降に編纂された逸話集とでもいうべき、『古事談』(こじだん)よると、死期を悟った兼家は、『我が両眼』とも評していた、平惟仲(たいらのこれなか)と、藤原在国(ふじわらのありくに)に対して…

 

『ワシの息子達の中で、誰が後継に相応しいか?と諮問した所上差し

 

在国は道兼を推したのに対して、惟仲は道隆を推したのです王冠1

 

在国が道兼を推挙した理由は、花山院(かざんいん)を出家・退位させて、兼家一族を権力の座に就けた最大の功労者

道兼であり、彼は度胸・胆力にも優れている注意ということであったのですがあんぐり

 

一方の惟仲は、長幼の序列に則り、嫡男たる道隆が相応しいと主張リサイクル

 

左右の眼の意見が割れたことは、兼家にしてみれば、想定外であったかもしれませんが、最終的に既定路線通り雲

 

道隆後継を決定したとされています花

 

『古事談』の史料的な価値には、聊か疑わしい面があるのですが、意外にも兼家が後継をどちらにすべきか?

 

迷っていたという描写は、あながち正鵠を得ていたのかもしれず、面白いですねOK

 

裏を返せば、道兼を支援する勢力もいたという訳で、兼家の強引な引き立てにより、内大臣にまで特進した道隆への反発も手伝ったのか、後継問題で、兄と対立関係にあった道兼との連携を摸索する動きもあったかもしれませんダッシュ

 

この時期の道兼の動きを見てみますと、道隆の任内大臣が決まった直後に、彼は円融院(えんゆういん)の院別当(いんべっとう)の筆頭に就任していますチョキ

 

別当というのは、太政官(だじょうかん)等の、公的な官職ではなく、非公的な役所の責任者を指す言葉で、今風に言えば十字架

 

副業と言った方が良いかもしれません上差し

 

円融院に限らず、譲位した帝の家政等を統括する機関として、院庁(いんのちょう)が設置され、院別当や院司(いんつかさ)等の職員が任命されていたのですがイラッ

 

我が子である一条帝(いちじょうてい)を即位させた円融は、父院として幼い帝への親権を行使する意思を露わにしていましたウシシ

 

院即ち上皇(じょうこう)は、政治には関わらないという不文律を無視して、一条の政務を代行する摂政兼家の政治に介入する

動きを見せたことで、院の周辺には兼家体制で、不遇を余儀なくされていた公卿達が集まりつつあったのですOK

 

代表的なのが、兼家覇権確立によって、摂関の座を明け渡さざるを得なかった小野宮流(おののみやりゅう)公任(きんとう)実資(さねすけ)であったのですが、公任の同母姉である遵子(じゅんし)円融の中宮(ちゅうぐう)だったこともあり、小野宮流は円融と密接な関係にありました耳

 

この他にも、兼家との凄まじい確執があった、故兼通(かねみち)の息子である大納言朝光(あさてる)も、円融院別当を務めて

おり、円融院周辺は、さながら反兼家派の巣窟とも言うべき様相であったかもしれません下三角

 

その様な状況下、これまで円融院とは潜在的な対立関係にあった兼家の三男道兼が、院別当筆頭に任命されたことは…

 

道隆が内大臣になり、自身の未来に不安を覚えた道兼が、兄に対抗すべく、円融院に接近を図ったとも思われ、あながちそれは事実かもしれませんあせる

 

その証左かどうか?不明ですが、道兼は洛外の粟田(あわた)にあった、自身の山荘で、頻繁に宴会を催しており、意外なことにその席には、実資が良く通っていたのですNEW

 

『光る君へ』でも描かれていましたが、円融・花山朝当時、道兼は五位蔵人(ごいくろうど)を務めており、その上司である

蔵人頭(くろうどのとう)が実資であり、一条朝に入り、両者の上下関係は逆転していたとは言え、親密な関係にあったことが

窺われますうずまき

 

また、実資の従兄弟で、小野宮嫡流たる公任は、道兼の養女となった、昭平親王(あきひらしんのう)娘を正室に迎えていますリサイクル

 

公任と道兼養女との結婚は、兼家死後から四年経過した、正暦(しょうりゃく)五年(994)のことであったのですが、両者の提携は兼家政権

末期以来、継続しており、反主流派として侮れない勢力を保持していたと思われます左差し

 

さて…

 

道隆の任内大臣の翌年、兼家は一条帝の元服直後に就任した関白を僅か数日で辞職グー

 

これを道隆に譲り出家してから、僅か五か月で薨去してしまいましたゲホゲホ

 

時を移さず、葬儀等の儀式は執り行われたのですが、自分が後継に選ばれなかったことに不満千万だった道兼は…

 

葬儀には参列したものの、父の喪に服すことはせず日夜邸に客を招いて遊興に耽っていたと言われています叫び

 

この様子は、歴史物語『大鏡』(おおかがみ)で紹介されているのですが、いくら憤懣やる方ないとは言え、父親の喪に服さなかったことは…

 

貴族社会から指弾されても致し方なく大いに彼の世評を落したものと思われますNG

 

『光る君へ』では、彼の叔母で、妾妻でもあった繁子(はんし)が、夫の体たらくに三行半を付きつけて、娘尊子(そんし)と共に邸を出て行く場面があったのですが、史実では…

 

繁子は正暦三年(992)に、この記事冒頭でご紹介した平惟仲と再婚しており、それ以前に道兼との婚姻関係は解消されていたと思われますドンッ

 

(但し、生まれた子供は母方が養育一切を担うことになっていたので、尊子は繁子が養育した訳です右上矢印)

 

そして、自暴自棄気味になっていた道兼ですが、兼家がまだ在世中だった正暦(しょうりゃく)元年六月には、権大納言兼帯

まま、右近衛大将(うこんえたいしょう)に就任しており、実際には長期間の無断欠勤はしていなかったのです四角オレンジ

 

この翌年の同二年(991)には、摂政になっていた道隆が兼任していた内大臣を譲られ晴れて大臣職の一角を占めるに至ったのですNEW

 

この後の道兼は、道隆後の執政の座を目指し勢力拡張に邁進するので王冠1

 

(劇中ではなく、こちらの話しが本当ですびっくりマーク)

 

本日は以上とさせて頂きます星