兼家vs円融院(道隆内大臣就任で交錯する両者の思惑) | タケ海舟の歴史事件帳

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さてさて…

 

永延(えいえん)三年(989)二月権大納言道隆(ごんだいなごんみちたか)は、内大臣(ないだいじん)への昇進を果しましたOK

 

前回もお話しましたが、父である摂政兼家(かねいえ)は、円融院(えんゆういん)に対して、三年余にわたり、道隆の内大臣昇格を請願していたのですが、兼家一族の専横を望まなかった円融は、容易に道隆の任内大臣を承諾しませんでした注意

 

痺れを切らした兼家は、『道隆の内大臣昇進は既に公卿会議において内定済である!として、事後承諾の形で円融の反対を

突破しようとしたのですもやもや

 

一条帝(いちじょうてい)父院(ふいん)として、円融は政治に介入する意思を抱いていたのですが、この院の意向は…

 

外戚(がいせき)として、帝を囲繞(いにょう)していた摂政兼家・国母詮子(こくもせんし)にしてみれば、看過出来ないことで

ありましたあせる

 

そもそも、譲位した先の帝(即ち上皇:じょうこう)は、新帝との権力の二重化を回避すべく内裏を退去して、後院(こういん)と呼ばれる院御所(いんごしょ)に引っ越すことが先例であり、したがって院は…

 

天皇家の私的な分野については、父院として影響力を行使出来たのですが、公的な分野である政(まつりごと)には…星

 

原則的に、関わらないことになっていました注意

 

勿論、円融院もそうした先例は認識していたのですが、我が子一条はまだ当時八歳に過ぎず、父院の教導は必要であると考えていたのでしょう魂

 

但し、帝が幼年時は、摂政が政務を代行することが、先例となっており、通常ならば、摂政である兼家に政治を任せるべき

あったのですがグー

 

在位時より、様々な軋轢のあった円融と兼家との関係は、依然としてギクシャクしていて、円融は兼家に万事を任せる気持ちにはなれなかったと考えられます耳

 

一代限定の帝という立場であった円融は、たった一人の我が子を即位させることに成功ビックリマーク

 

これ以降は、嫡流である冷泉皇統(れいぜいこうとう)を廃絶させメラメラ 我が円融皇統によって皇位を相承させることに目標を

切り替えていましたイヒ

 

この点では、兼家も外孫の一条を即位させることは宿願であり、その実現を以って、晴れて摂政の座をゲットしたのですが電球

 

兼家は、円融が敵視していた冷泉皇統に三人の外孫を擁しており、事実、一条帝の東宮(とうぐう)には、件の三人の外孫親王の長子である居貞(いやさだ)を立てていました耳

 

即ち、兼家の胸中は、

 

➀一条

 

②居貞

 

③一条の皇子

 

という順番での、皇位継承プランがあったのですが、一条一人しかいない円融皇統は、冷泉皇統のそれと比較して脆弱であることは否めず叫び

 

もし、病弱であった一条が皇子を残さないまま、不測の事態となった場合…

 

躊躇なく兼家は居貞を即位させ東宮には居貞の弟親王を立てる筈で、その様な局面になればおいで

 

皇位を継ぐ親王がいない円融皇統は、消滅を余儀なくされてしまう訳で、円融は何としても最悪の事態を回避したかったのですあし

 

道隆の内大臣昇進を認めれば、兼家⇒道隆と、兼家一族の権力承継が確定されてしまうことに他ならず、円融としては自身の

影響力を維持すると共に、兼家一族の力を極力抑える必要性に迫られていたのです雲

 

譲位後の寛和(かんな)元年(985)に落飾御願寺(ごかんじ)円融寺(えんゆうじ)を院御所にしていた円融の影響力は健在

 

院の周辺には、左大臣源雅信(さだいじんみなもとのまさのぶ)や、兼家に摂関嫡流の座を奪われてしまった小野宮流(おののみやりゅう)頼忠(よりただ)・公任(きんとう)父子等が、近侍しており、他の公卿達も公的に一条帝に仕える一方で指輪

 

円融院の許へも出仕するという、両睨み的な対応を取っていましたOK

 

その様な、微妙な空気が流れていた政局において、兼家は道隆の任内大臣を強行しようとしたのですもやもや

 

さて、三年余にわたり、兼家の懇願を阻んでいた円融ですが、ここに至って、妥協も止む無しと判断したのか?

 

漸く、道隆の内大臣就任を承認したのですパー

 

尚、内大臣という官職は、左大臣・右大臣とは異なり、常時置かれていたポストではなく上席大臣が空席若しくは、何らかの事情によって職務が遂行出来なくなった場合に、特に設置する臨時の大臣職でありましたキョロキョロ

 

したがって、平安時代初期~前期において、内大臣が置かれていない期間は多く道隆の昇進問題が表沙汰になる前は…

 

兼家の不倶戴天の敵であった、兄兼通(かねみち)が、権中納言(ごんちゅうなごん)内覧(ないらん)に就任した後に、内大臣に

就任したのが、直近の例であったのですパー

 

また、この当時、

 

➀太政大臣頼忠OK

 

②左大臣雅信OK

 

③右大臣為光(ためみつ)OK

 

上記三つの大臣ポストは、全て埋まっており、兼家は久々に内大臣を復活させて、我が子をその地位に就けたことで…

 

前例のない、大臣四人制が演出されたのですがハートブレイク

 

件の道隆の内大臣就任によって、以後、内大臣は、左右大臣と同じく、常置の官職となり、同時に…

 

次期摂政関白に就任する者が占めるべき大臣ポストであるという先例が、作られるに至ったのです100点

 

こうして兼家は、自らの後継者が道隆であることを、貴族社会に認識させたのですがw

 

このゴリ押し人事を承認した円融も、このまま黙ってはいませんでしたピンク音符

 

ゴリ押し人事には、ゴリ押し人事でやり返す!ということだったのか凝視

 

円融は、道隆の任内大臣を承認する条件として…

 

ある人物を参議(さんぎ)に昇格させることを、兼家に要求したのですFREE

 

その人物とは、果たして誰か?

 

続きは次回に致します指輪