さてさて…
念願の摂政となった兼家(かねいえ)は、直ちに、摂政として最初の除目(じもく)に着手しました
除目とは、今で言う人事異動に相当する、朝廷の儀式なのですが、毎年の春(新年)、若しくは秋に行われるのが常でした
但し、必要な場合、臨時の除目が行われることもあり、兼家最初の除目は、これに該当すると思われます
今回の除目の目的は…
何と言っても、自身の政権基盤を固めることにあり、その為には、自分の子供達の官位を引き上げることが、最優先あったのです
以下、順番に見て参りますが…
言うまでも無く、最も優遇されたのが、嫡男の道隆(みちたか)であったのですが
➀寛和二年(986)七月五日⇒権中納言(ごんちゅうなごん)に昇進皇太后宮大夫(こうたいごうきゅうたいふ)を兼任
②同年同月九日⇒正三位(しょうさんみ)に昇叙(しょうじゅ)
③同年同月二十日⇒権大納言(ごんだいなごん)に昇進
④同年同月二十二日⇒従二位(じゅうにい)昇叙
⑤同年同月二十七日⇒正二位(しょうにい)昇叙
寛和の変直前の段階で、道隆は公卿である従三位(じゅさんみ)には到達していたのですが、公卿が就任すべき議政官(ぎせいかん)の官職には就任しておらず、云わば無官の公卿である『散位』(さんに)に留まっていました
『光る君へ』劇中では、妹詮子(せんし)に
『兄上はまだ参議(さんぎ)にもなっておりせぬ故』
と嫌味を言われていましたが、父兼家の摂政就任によって…
漸く官位を上昇させる機会を得たのです
それにしても、道隆の官位の上昇は目を見張るものであり、何と一か月弱の内に
位階では三段階進み、官職も参議を経ずにして、一気に大臣予備軍である権大納言まで躍進したのです
この強引とも言える、道隆の官位上昇は、兼家が自身の後継者を嫡男たる彼にするという、意思表示にあったのですが…
ついこの前までは、無官の散位でしかなかった彼の昇進振りに対しては、他の公卿達からは驚きと共に反感の念を以って迎えられたことは、申すまでもありません
更に、兼家の息子達の引立ては、道隆一人には留まらず
寛和の変、成功の立役者であった道兼(みちかね)については…
➀寛和二年六月二十三日(変の当日)⇒蔵人頭(くろうどのとう)
②同年七月五日⇒従四位下(じゅしいげ)昇叙
③同年同月十六日⇒右近衛権中将(うこんえごんのちゅうじょう)に昇進蔵人頭は留任
④同年同月二十日⇒参議(さんぎ)に昇進(公卿の仲間入り
)
⑤同年十月十五日⇒従三位昇叙、権中納言に昇進
⑥同年十一月二十二日⇒正三位昇叙 権中納言は留任
上記の如く、昇進を重ねたのですが、兄道隆の昇進に比べれば、聊かそのスピードは遅かったとは言え、僅か半年余りで正五位下からの急速な出世であることに変わりはなく、これも異数の昇進と言えます
では、道長はどうだったのかと言えば…
➀寛和二年七月二十三日⇒従五位上昇叙、五位蔵人(ごいくろうど) 従前の右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)は兼帯
②同年同月二十七日(②に四日後)⇒正五位下昇叙
③同年八月十五日⇒少納言(しょうなごん)兼帯
④同年十月十五日⇒左近衛権少将(さこんえごんのしょうしょう)に転任
⑤同年十一月十ハ日⇒従四位下昇叙
以上の通りだったのですが、兄二人に比べると、一挙に公卿昇進とは行かなかったのです
道隆・道兼、二人の官位の引き上げを強行したこともあり、このうえ三男(正妻腹三男・兼家息子全員の中では五男)も道長までも
急速に昇進させることは難しく、流石に兼家は、他の公卿達からの反発を懸念したと思われます
但し、道長の場合、小まめな昇進となっていながら、寛和二年末時点で、従四位下左近衛権少将にまで進んでいるので…
兄達と同じ様にはいかなくても、それなりの出世厚遇を受けていたと思われます
因みに、彼等の異腹兄弟であった道綱(みちつな)ですが…
➀寛和二年六月二十三日⇒五位蔵人(上司の蔵人頭は道兼)
②同年七月二十二日⇒従四位下昇叙
③同年十月十五日⇒右近衛中将(うこんえちゅうじょう)に昇進
という昇進であったのですが、道隆・道綱に比べて、それ程厚遇されていないとは言え、右近衛中将(道兼に代わり)への昇進を
果たしており、庶子でありながらも、それなりの出世であったと言えます
但し、その年の末には、少将であった異母弟道長に位階で並ばれており、翌年に入ると、あっという間に道長が異母兄を追い抜くことになります
以上、兼家の息子達の昇進振りを、寛和二年限定で見て参ったのですが、翌年以降も兼家は、子供達の官位引き上げに傾注して
おり
既に五十七歳に達していた、兼家の焦燥の念が見え隠れしていますね
さて、息子達の急速な官位引き上げに対して、当然ながら他の公卿達からは
『身内贔屓が甚だしい』という批判の声が上がっていた(流石に本人の前では言わなかった筈ですが)と思われますが…
兼家はそうした公卿達の不満を考慮特に道隆の権大納言昇進により、官位を追い越された公卿達の位階を上げる等
それなりの配慮を見せていたのですが、ここで兼家は、彼等の不満の収めるべく…
➀就任していた右大臣を辞任して、摂政専任となる
②右大臣の後任に、筆頭大納言だった、異母弟為光(ためみつ)を昇格させる
という人事を断行したのです
次回は、為光の右大臣昇格について、お話致します