さてさて…
摂政(せっしょう)に就任した兼家(かねいえ)は、それまで兼官していた右大臣(うだいじん)を辞任
自らは、摂政専任となったのです
それまでは、摂政・関白に就任しても、必ず太政官(だじょうかん)の官職(大臣)を兼ねるのが、前例であったのですが…
兼家は敢えてその前例を踏襲することをせず、専任摂政としての、新たな例を創生する道を選んだのです
前回ご紹介した通り、兼家は自身の息子達である、道隆(みちたか)・道兼(みちかね)・道綱(みちつな)、そして道長(みちなが)の官位を上昇させることに傾注した結果
他の公卿達の反発を受けたのですが…
摂政の極端な身内贔屓に反感を持った彼等は、朝廷への出仕を怠る様になったのです
あたかも、公卿達の総すかんを喰らった、先帝花山(かざん)末期の様相と酷似していたのっですが、流石に兼家もこれには困惑
したみたいで
『十日に一日は出仕する様に』という命令を公卿達に発したのです
それにしても、ひと月が三十日とするならば、十日に一日の出勤ペースならば、月に三回出社すれば良いことになる訳で
現在では、到底認められる勤務体系ではなく、そう考えますと、当時の公卿達は
随分恵まれた、特権階級だなという思いを禁じ得ませんね
さて、こうした公卿達のサボタージュに遭遇した兼家は、流石に子供達の出世のスピードを遅くせざるを得なくなった様で
僅か一か月で、権中納言(ごんちゅうなごん)⇒権大納言(ごんだいなごん)に昇進、位階も正二位(しょうにい)にまで昇った道隆の昇進を、二年程見送ることにしたのです
因みに、永延(えいえん)元年(987)、道隆は本来、従一位(じゅういちい)に昇叙されことが内定していたのですが…
これを辞退する代わりに、自身嫡男の伊周(これちか)を正五位下(しょうごいげ)に叙爵させています
これも一種の身内贔屓であることに、変りはなかったのですが、先ずはあまりにも昇進が突出していた、自分への批判をかわす
意図があったと思われます
さて、そうした周囲への配慮に意を用いていた兼家ですが…
先々代の円融帝(えんゆうてい)治世の後半から、襲位していた右大臣の職を辞して、異母弟の大納言為光(だいなごんためみつ)にこれを譲ったのです
これも、自分の弟に右大臣職を譲ったことになるので、またまた身内贔屓ではないか
と公卿や貴族達も思ったかもしれせんが、為光の右大臣昇進は、それまでの身内厚遇という側面とは
聊か一線を画したものであったのです
さて、為光という人物については、二月のブログで数回程触れたことがあったので、覚えている方も多いかと思います
(その記事のリンクを貼っておきましたので、ご確認下さい)
為光は、『光る君へ』のF4の一人である、斉信(ただのぶ)や、花山帝最愛の女御忯子(にょうごじし)の父親であり
円融朝中期より、長く大納言の職を務めており、この頃はその筆頭の序列を維持していました
同じ九条流(くじょうりゅう)の祖である、師輔(もろすけ)を父としながらも、伊尹(これまさ)・兼通(かねみち)・兼家の三兄とは生母を異にしており、兼家とは一回り近くの年齢差がありました
兼家と兼通との権力抗争の頃には、為光は兼通の引立てを受け、当時権大納言であった兼家を抜いて、筆頭大納言に昇進していました
但し、兼通死後は、右大臣に昇進した兼家の後塵を拝することに余儀なくされていました
周知の通り、花山帝の後宮に娘忯子を入内させたことで、花山朝における外戚の地位を目指していたのですが…
忯子の死により、その野望は潰えてしまったのです
花山政権との関係が切れてしまった為光は、九条流内で対立関係にあった兄兼家に接近、自分の家の生き残りを摸索する道を選んだのです
他人からみれば、『この前までは敵対していたのに、一転してすり寄って来るのか』
と非難の視線に晒されていたかもしれませんが、外戚になる目がなくなったことで、為光は自分の家を存続させる…
即ち、我が子誠信(さねのぶ)・斉信の将来を考えなければならない訳で、多少の朝令暮改は致し方ない所であったのでしょう
一条帝の即位間もない寛和(かんな)二年(986)、為光三男の道信(みちのぶ)が、兼家の養子となったのですが、兼家は養子縁組をした道信の元服を…
何と、内裏(だいり)の淑景舎(しげいしゃ)にて催したのです
元服直後、道信は直ちに従五位上(じゅごいじょう)に叙位、併せて侍従(じじゅう)に任命されたのですが、これは道兼・道長の
従五位下を上回った初叙であり、まさしく彼は摂政の子供という、特別な待遇を受けたのです
この様に、(伯父でもある)摂政の子という資格で、道信の内裏での元服、叙位任官が行われたのですが
今後は為光を優遇するという、兼家の意思表示の一方…
為光を自陣営に取り込む意図があったと思われます
事実、これからの為光は、以前の如く、摂政となった兄兼家に楯突くことが出来なくなり、完全に為家の派閥に組み込まれる形
となったのです
そうした自陣営の強化を行ったうえで、兼家は右大臣を席を、為光に譲ったのですが…
次回は、為光の右大臣承認が意味することについて、お話したいと思います