なんて言うんでしょうか・・・どのような事デモ・・本当に判りかけてくるのは・・
その事を、やり始めて10年一区切りと・・思って良いのではないでしょうか?
3年で・・進め方、考え方が少し判りかけてくる。
5年から先は・・10年への道筋を、しっかり歩いて行けば、10年たった時に、少しは判る・・
そのぐらいの事と、思って間違いないのでは、ないでしょうか?
本に・・だれだれが、こう言ったとか・・ああ言ったとか書いてあったから・・その通りにした・・と、言うので
は・・40年掛かっても何も・・判っていないのと同じで・・・書いてあった事が・・理解出来、
その、道理を万人に、分からせる・・説明できる・・そして、万人、全ての人が・・ああそうか・・と、
納得できる・・それでこそ、自分の物に、初めてなったと言い切れるものだと、思うのです。
偉い人が・・ああ言った、こうやった・・と、本に書いていた・・これは、まさしく、絵に書いた餅?
食べられない・・モノは、いつまでたっても食べられないまま。。。。
武道は、現場至上主義でなければ、成り立たないのです。
いくら・・知識が有って、博識でも・・出来ない・・体現できないのであれば・・知っているだけ、
ちょっと本に書いてあっただけの事なら・・自分の心に留めて、体現してみてからで、十分であるわけで。
そうなって・・やっと人に話す事が許される・・のが、武道の世界と言って良いでしょう。
あまり・・人に、とやかく言ったりするのではなく、また、できない事を、出来ますとか・・大丈夫ですと
か・・言って・・自分を、軽く見られるようでは、まだまだ・・と、いうより・・・・・。さきが・・ない。
自分の可能性を、見極める事も必要な事ではなりますが・・・、分を知ると言う事も大切な事であります。
自分を、ちゃんと分析出来て・・しっかりとした分析の中で、努力精進するのと・・前出のように、
自分を知らずに、がむしゃらになっていると、足元さえ見えなくなってしまい、強いて言うならば・・
間違った認識や、自意識の過剰は・・善悪の判断さえ・・あいまいな物のに、してしまいがちな事を、知っ
ておく必要が有るでしょう。
最も大切な事は、稽古に継続して通う事、自分の稽古を繋げて行く、稽古を繋げると言う事は、
心を残す・・・まさに・・残心に浸れるような・・余韻を楽しむ事の出来るような・・そのような稽古を・・する
と言う事・・そういう事は・・いつでも、意識しておかなければならない事でしょう。
そして、宗家に観て頂く、稽古を本位とする姿勢です。稽古本位でなければなりません。
演武・・普段の稽古の延長であれば、それは、良い稽古の先の演武で、あって欲しい物です・・
・・私の遣い方の基本は、BさんSさんの考え方です。Jも、多分そうでしょう。
当然、BさんSさんの教えは、先代の宗家の教えであり、現宗家へとしっかり受け継がれている物です。
流し返しの足捌きに付いて言えば、現宗家に基本をしっかりと、教えて頂いております。
細かい所も、よく注意をして下さり・・何度でも、やり直す程・・・教えて頂いているわけです。
新陰流の教え・・・それは、400年の現場至上主義の中で培われたものであると思うのです、
先達の書いた物を、今・・解き明かしても・・その解釈の仕方は千差万別であってしかりです・・
宗家の解釈による所では、有りまが・・しかるに、今の、教えの元を考えた時、導いてくれるのは・・
やっぱり、先代の考え方、教えの様な気がしてなりません。
偉い人が・・こう言ったとか、ああ言ったとかという本が、出回り・・・頭でっかちになってしまう・・きらい
が・・私達には付いて回っています。
宇城先生の名言に「欲を出すな。」という事が有りますが、最近よく・・この言葉を、思いだします・・。
と言う事は・・・私、欲張りなのです・・・「欲は、本当に、心の発育の邪魔をする。」モノですね。
活かされている自分にとって・・先を見た時に・・これほど邪魔だと思う物はない・・と、最近つくづく
思うのです。「欲」が出た時・・・純粋な人は、その事を、見透かす能力を持っています。
こちらが、「欲」を持っていなくても、人の見る目は・・色々と憶測を作りだすものなのです。
つまらない・・・やっかみを持っている人間に‥出会った時に・・ああと・・かわいそうな人だと・・思える
事もある・・「欲」の無い時の自分は、そのようなものです。
いつも、自分を輝かせていたい、自分に素直である事・・それが、一番だと思うのです・・・が。