上野の東京都美術館で開催されている「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展」で、ちぃさんと過ごす楽しい絵画鑑賞の続き。
第9章 エゴン・シーレ 風景画
ここだけは撮影可。
シーレが風景画を描いているとの認識はあまり無かったが、1911年にウィーンを離れ、母親の故郷、南ボヘミアの町クルマウに移住したことを機に、風景画を積極的に描いている。
「すぐにでもウィーンを離れたい。ここは何と嫌なところだろう。僕は一人になってボヘミアの森に行きたい」(1910年、シーレからアントン・ペシュカに宛てた手紙より)。
1911年、シーレはクルマウに移り住むが、戸外でヌードモデルを描いたことや、奔放な生活が周囲から非難され、失意のうちに約3ヶ月で街を退去している。
「至高の感性は宗教と芸術である。自然は目的である。しかし、そこには神が存在し、そしてぼくは神を強く、とても強く、もっとも強く感じる」(1910年、エゴン・シーレの詩、「芸術家」より)。
シーレは詩作も残している。
ここには自然に対するシーレの考え方が表されている。
エゴン・シーレ「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」(1912年) レオポルド美術館蔵
これは風景画と言って良いのだろうか。
「シーレは風景画において、自然を擬人化して解釈し、あるいはそこに人間のかたちと感情を刻み込み、人物画に匹敵するほどの表現へと到達した」のだそうだ。
エゴン・シーレ「丘の前の家と壁」(1911年) レオポルド美術館蔵
ここに描かれた家はクルマウに実際にある光景から切り取られたものだが、シーレはこうしたモティーフを自由に組み合わせ、架空の風景を作り出している。
エゴン・シーレ「小さな街Ⅲ」(1913年) レオポルド美術館蔵
シーレにしては珍しく、おとぎ話の街のような可愛い絵だ。
エゴン・シーレ「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)」(1914年)
シーレは退去後も度々クルマウを訪れて絵を描いている。
モルダウ川に面したクルマウの家並みを描いているが、建物の配置や色の一部はシーレによって自由に表現されている。
この絵の下には、1910年に描いた風景と自画像を組み合わせた図像が隠されていることが1960年代に発見されている。
エゴン・シーレ「ドナウ河畔の街 シュタインⅡ」(1913年) レオポルド美術館蔵
街の背景はドナウ川。
中世の街並みが残るドナウ河畔の街シュタインをモティーフに、一連の大型絵画を制作している。
エゴン・シーレ「荷造り部屋」(1917年) レオポルド美術館蔵
1914年の第一世界大戦勃発後、軍に召集され、兵役中に描いた作品。
前線には送られず、絵画制作もある程度認められていた。
この時代になると、表現主義的な画風から、自然主義的で写実的な画風へと変化している。
第10章 オスカー・ココシュカ ”野生の王”
ココシュカは、クリムト、シーレと並び、近代オーストリアを代表する画家の一人。
長くなり過ぎるので、鑑賞記は省略。
第11章 エゴン・シーレと新芸術集団の仲間たち
シーレが1909年にウィーン美術アカデミーを自主退学し、友人達と結成した新芸術集団の画家たちの作品の展示。
ここも省略。
第12章 ウィーンのサロン文化とパトロン
シーレはパトロンにも比較的恵まれていた。
その内の一人が、ブロンシア・コラー=ピネル。
彼女自身、ウィーン分離派や表現主義の画家たちと交流した画家で、二点の作品(いずれも個人蔵)が展示されている。
第13章 エゴン・シーレ 裸体
シーレにとって、裸体は自画像と並んで主要なテーマだった。
しかしシーレが描く裸体は当時の公序良俗には反しており、クルマウを追い出された後に移り住んだノイレンバッハでは少女の誘拐(後に疑いは晴れる)と猥褻画の頒布の罪で逮捕され、三日間の禁固刑を受けている。
エゴン・シーレ「しゃがむ裸の少女」(1914年) レオポルド美術館蔵
(写真はMEISTERDRUCKEからお借りしました。)
シーレのヌードモデルのポーズは独特。
伝統的な裸婦像は立っているか横たわっているかだが、シーレの裸婦像は身体をねじったり、うずくまったり、膝を抱え込んだり、そのポーズは多様。
決して美しいとは言えない裸婦像だが、こちらを見据えるような眼が鋭く存在感がある。
エゴン・シーレ「頭を下げてひざまじく女」(1915年) レオポルド美術館蔵
(写真はアート名画館からお借りしました。)
このポーズは一層大胆で挑発的。
モデルを務めた女性は大変だっただろう。
ひざまずいた姿勢から前につんのめったような姿勢、舞い上がったスリップと露わになった太腿、シーレ独特のエロティックな表現で、躍動感のある絵だ。
第14章 エゴン・シーレ 新たな表現、早すぎる死
1915年、シーレはエーディト・ハームスと結婚。
第一次世界大戦に召集されるが、戦時下でも作品発表の機会を得て国際的評価が高まる。
エゴン・シーレ「縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ」(1915年)レオポルド美術館蔵
(写真はブレーンからお借りしました。)
結婚した年の妻の肖像画。
この頃からシーレの画風が挑発的な表現主義から写実的な画風に変わり始めていることがわかる。
エゴン・シーレ「横たわる女」(1917年) レオポルド美術館蔵
(写真はSPUR.JPからお借りしました。)
妻のエーディトをモデルとして描き、顔だけは変えている。
とてもバランスの良い美しい作品だが、性の表現は大胆。
元々は女性器が描かれていたが、分離派展に出品するにあたり、手が加えられたと考えられている。
1918年に開催された第49回分離派展にシーレはメインの画家として招待され、50点の作品を出品し、大成功を収めている。
エゴン・シーレ「しゃがむ二人の女」(1918年)-未完成- レオポルド美術館蔵
(写真は美術手帳からお借りしました。)
展示を締めくくる絵は最後の年、1918年に描かれた未完の作品で、シーレのサインが入っていない。
この二人の女性に込められたメッセージは何だったのだろう。
純粋な表情の二人の女性は、シーレの死への旅立ちを安らかに見送る存在なのかもしれない。
1918年の秋に大流行したスペイン風邪に夫婦ともに感染し、妊娠6ヶ月の妻は亡くなり、シーレもその三日後の10月31日に死去。
享年28歳。
会場を出ると、撮影可能なパネルが置かれている。
シーレは実際に詩作も残している。
戦争が終わり、今から活躍の場というところで、行くのではなく逝ってしまった。
しかしシーレの言葉どおり、シーレの絵は世界中の美術館に展示されることとなった。
これで”レオポルド美術館 エゴン・シーレ展”鑑賞記は終了。
ちぃさんと上野で過ごす楽しい午後は続きます。