京橋の「アーティゾン美術館」でちぃさんと過ごす楽しい美術鑑賞の午後の続き。
観ている展示は、”石橋財団コレクション選”。
ここからは彫像の展示。
オーギュスト・ロダン、「考える人」(1902年頃) ブロンズ。
元々は「地獄の門」の扉の上部中央の人物像を独立させたもの。
大きさは、大、中、小と三種類制作され、これは小型の作品。
大型の「考える人」も「地獄の門」も上野の国立西洋美術館の前庭に展示されている。
大型の像は何度も観たことがあるが、この像は高さが37.7cm。
間近でじっくり観ることが出来る。
オーギュスト・ロダン、「立てるフォーネス」(1884年頃) 大理石。
恥じらいを表現しているのだろうか。
岩から生まれたかのような素晴らしい造形。
フォーネスは、ギリシャ神話の牧神に従う森の精。
アリスティド・マイヨール、「女の顔」 テラコッタ。
人間の原初性を絶えず主題とし、明朗で秩序付けられた女性像を造形化した彫刻家なのだそうだ。
マイヨールの作品は、「アーティゾン美術館」の5階ロビーにも展示されている。
アリスティド・マイヨール(1861-1944)、「欲望」(1905-08年) ブロンズ。
これが5階に常設されている作品。
ヘンリー・ムーア、「横たわる人体」(1976年) ブロンズ。
ヘンリー・ムーアはイギリス、ヨークシャー出身の彫刻家。
”横たわる人体”は彼が生涯追い求めたテーマで、多くの作品を残している。
作品は高く評価され多くの富を築いたが、その大部分を「ヘンリー・ムーア財団」に寄付し、美術教育や支援に使われている。
ヘンリー・ムーアの作品は、ブリックスクエアにも「羊の形(原型) 1971」が展示されているので、親しみのある彫刻家だ。
ウンベルト・ボッチョーニ、「空間における連続性の唯一の形態」(1913年、1972年鋳造) ブロンズ。
20世紀初頭にイタリアで興った未来派の主要メンバー。
新しい時代にふさわしいスピード感、ダイナミズムを追い求め、”歩く人”は代表的な主題。
オシップ・ザッキン、「三美神」(1950年) ブロンズ。
オシップ・ザッキンといえば、隅田川の中央大橋に置かれている、シラク・パリ市長(当時)から贈られた彫像の作者。
ロシア生まれの彫刻家で、パリで活躍した。
三美神は古くからの芸術表現の主要テーマ。
隅田川を航行する船から撮影したので小さくて良く見えないが、これが中央大橋に設置されているオシップ・ザッキン作、「メッセンジャー」。
コンスタンティン・ブランクーシ、「ポガニー嬢Ⅱ」(1925年、2006年鋳造) 磨きブロンズ。
ルーマニア出身の彫刻家。
20世紀の抽象彫刻の先駆者。
マルギット・ボガニーはハンガリー出身の画家で、ブランクーシはボガニーの彫像を大理石やブロンズで複数制作している。
アレクサンダー・アーキペンコ、「ゴンドラの船頭」(1914年) ブロンズ。
ウクライナ出身の彫刻家。
1914年、パリの展覧会に出品された時、今までの彫刻の概念を覆す造形に驚くと共に酷評された作品。
今観ると、実にわかりやすい動きのある素晴らしい作品だ。
アーキベンコはザッキンと共にキュビスムの発展に貢献した。
アレクサンダー・コールダー、「単眼鏡」(1947年) 彩色金属板。
アメリカ出身のパリで活動した彫刻家。
金属板が支え合う抽象彫刻を制作。
観る方向によって表情を変えるのが特徴。
ここからは日本の画家の作品。
黒田清輝、「針仕事」(1890年)。
大好きな絵だ。
法律を学ぶためにパリに留学し、画家に転向。
帰国後は東京美術学校(東京芸術大学の美術部門の前身)に新設された西洋画科を率い、明治後半の日本の美術界の発展に大きく貢献した。
この絵のモデルは、黒田が絵を描くのに好んで滞在したパリ南東70kmの村で部屋を借りていた農家の娘、マリア・ビヨー(当時19歳)で、マリアは黒田のモデルを度々務めている。
藤島武二、「天平の面影」(1902年)。
明治30年代から昭和10年代の日本の洋画壇を牽引した画家。
東洋と西洋の美を融合させたこの作品は明治浪漫主義と呼ばれている。
藤島武二の絵について詳しくはこちら。
坂本繁二郎、「放牧三馬」(1932年)。
坂本は生涯にわたって、馬、牛、能面、月などを描いている。
三頭の馬が正面、横、後ろ姿で描かれているが、これは西洋美術の重要なテーマ、三美神と同じ構図だ。
久留米の小学校の代用教員時代に石橋正二郎(ブリヂストン・石橋財団創設者)に美術を教えたことがあり、正二郎に青木繁の作品収集を勧めた人物。
この絵が二科展に出展された直後に、正二郎によって購入されている。
青木繁、「海の幸」(1904年)。
この絵は「ブリヂストン美術館」時代から何度も観に来ている。
友人の坂本繁二郎が語った館山の布良海岸で観た大漁陸揚げの様子から、青木が想像力を働かせて描いたもの。
青木繁は28歳の若さで夭逝している。
この絵の前に椅子が置かれていたので、腰かけて眺める。
「青木繁の息子は尺八奏者の福田蘭堂で、その息子がクレージーキャッツのピアニストの石橋エータローなんですよ」などとちぃさんに説明するのも楽しい。
福田蘭堂は浮気が原因で離婚しているので、エータローは母方の姓の石橋となっている。
関根正二、「子供」(1919年)。
関根は16歳で早くも画壇にデビューしたが、20歳2か月で夭逝している。
この絵は死の数か月前に描かれた最後の作品で、モデルは末の弟。
震災や戦災で失われた絵も多く、現存するのはわずか30点ほど。
岸田劉生、「南瓜を持てる女」(1914年)。
この絵も妻の蓁(しげる)を描いたもの。
登場人物は日本人女性でありながら、絵の雰囲気はルネッサンス期の宗教画か豊穣の女神を描いたような画面構成となっている。
小出楢重、「帽子をかぶった自画像」(1924年)。
この絵を観ると、何時も不思議な気分になる。
左向きの小出楢重が画面の左寄りに描かれ、右奥の椅子とトランペットの存在感が大きく、居心地の悪さを感じてしまう。
さらに小出楢重自身が、自信に満ちているのか苦悩に沈んでいるのか、この表情から読み取れないのだ。
パリに留学し、こんな嫌なところはないと言いながら、帰国後は服装も生活様式も西洋風に切り替えたそうだ。
そんな時期に描かれた一枚だ。
中村彜、「自画像」(1909ー10年)。
暗い自画像だ。
”にがむし”という別名が付いている。
中村彜(つね)は幼い頃に、両親、姉、兄を亡くし、自身も肺結核で身体が弱かった。
37歳で夭逝している。
光の使い方にレンブラントの影響を感じると思ったら、レンブラントを研究して絵を描いていたのだそうだ。
松本竣介、「運河風景」(1943年)。
第二次世界大戦末期になると、松本は東京や横浜の景色を暗い色調で数多く描いた。
ここに描かれているのは、新橋近くのごみ処理場と汐留川に架かる蓬莱橋。
安井曾太郎、「F婦人像」(1939年)。
F婦人とは、絵画コレクターの福島繁太郎の妻で、随筆家の慶子。
福島夫妻は1920年代を主にパリとロンドンで過ごし、マティス、ルオー、ピカソなどの作品を数多く日本に持ち帰っている。
慶子は肖像画を依頼し描いてもらうにあたり、描きにくい細い縞模様の服をわざと選んだそうで、安井はその挑戦に制作意欲を掻き立てられたそうだ。
岡鹿之助、「セーヌ河畔」(1927年)。
童話の挿絵になるような可愛い絵だ。
岡は1925年にパリに渡り、第二次世界大戦勃発までの14年間を過ごした。
この絵を観ると、ルソーの影響が感じられる。
児島善三郎、「海芋と麒麟草」(1954年)。
フランス留学中に学んだ写実的表現と、日本の伝統的な装飾様式の融合を図る”日本人の油絵”の創造を追求した画家。
立体的に描かれた海芋(カラー)と麒麟草に対し、花瓶やテーブルクロス、背景の文様が平面性を強調されて描かれている。
佐伯祐三、「テラスの広告」(1927年)。
パリの街角の風景が活き活きと描かれた、佐伯祐三らしい作品だ。
「広告貼り」の作品にも用いられた黒い文字が装飾的に使われ、画面に躍動感を与えている。
この絵は、二度目のフランス滞在期間に描かれたもの。
山口長男、「累形」(1958年)。
ここから急に抽象画になった。
山口長男は日本における抽象絵画のパイオニア。
オノサト・トシノブ「朱の丸」(1959年)。
モザイク状の幾何学的抽象様式で知られ、グッゲンハイム美術館にも作品が収蔵されている。
田中敦子、「無題」(1965年)。
草間彌生と並び、日本を代表する前衛芸術家。
作品はニューヨーク近代美術館(MOMA)にも収蔵されている。
田中信太郎、「羽化」(2008年)。
戦後の前衛芸術の旗手の一人。
猪熊弦一郎、「都市計画(黄色 No.1)」(1968年)。
ニューヨークで活躍した猪熊がニューヨークの街を俯瞰的に表現した作品。
表現様式は日本の畳や絣の文様を想起させ、日本的な美的感覚が斬新であると評価された。
草間彌生、「無限の網(無題)」(1962年頃)。
〆の一枚は、草間彌生。
あまりに有名で、何も記載する必要は無いだろう。
”石橋財団コレクション選”の鑑賞記はこれで終了。
”ピカソとミロの版画-教育普及企画-”の鑑賞記が続きます。