かなり以前のお話。
ミラノから車でパロマ、ボローニャと回り、クレモナに到着した。
クレモナは、ヴァイオリンのストラディバリの故郷として有名な街だ。
クレモナ大聖堂(写真)を見学した後、近くの古いホテルにチャックイン。
夜は、友人の晩餐会に出ることになっていた。
友人と言っても、私の父親よりも年上。
第二次世界大戦中はファシスト党員として戦い、今も米国には入国できない。
現在は、ロンバルディア同盟の活動家で、北イタリア独立運動の戦士である。
郊外の邸宅レストランでの素敵なディナー。
私も、日中とはスーツを替え、派手目のシャツに鮮やかな柄のネクタイを身に付け、オードトワレをさりげなくふりかけて出掛ける。
前菜はたっぷりのプロシュート、そして驚くべき量の二種類のパスタ、さらにメインは仔牛のグリル、とても食べ切れる量ではない。
食後のフォルマッジオも、三年熟成の、こぶし大のパルミジャーノ・レッジャーノが三個も目の前に出され、絶句。
そして、最も鮮烈な印象を持ったのが、出された赤ワイン。
その頃の私は、フランス・ワイン中心。
ところが、友人お薦めのワイン、ピエモンテ州のピオ・チェーザレが造る、バローロにすっかり魅了されてしまった。
今ではバローロ、バルバレスコは良く飲むワインだが、当時は飲んだことのない品種。
ぶどうは、ネッビオーロ。
霧のぶどうという意味だとか。
ピエモンテ州は、山々が連なり、霧が多く発生する。
チェーザレの名前もインパクトがあった。
初めて読んだ塩野七生の本は、「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」だった。
チェーザレは一般にはガイウス・ユリウス・カエサルを指す名前だが、読んだばかりの本とイメージが重なったのかもしれない。
チェーザレ・ボルジアは、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子であり、15世紀末から16世紀初頭にかけて活躍した軍人かつ政治家で、マキァヴェッリの「君主論」のモデルとも言われる人物である。
一方、ピオ・チェーザレは、ピエモンテ州アルバ地方に1881年に創立された、バローロの生産者の中で最も古い醸造家のひとつ。
モットーは、「量は少なくとも良い品質のワイン」を造り続けること。
近代的生産手法を取り入れながらも、新樽のバリックを多用した現代風の味わいを避け、ぶどう本来の風味を生かした伝統的手法を守る生産者。
ピオ・チェーザレ、今も愛するワインの一つです。
(写真はクレモナの街)