「会席料理でワインが飲みたい」
彼女のこの一言で予定が全て狂ってしまった。
本当はイタリアンに行こうと思っていたが、急きょ料亭に変更することとなってしまった。
でも、行きたい店を決めていたにもかかわらず、「明日の夜は何を食べたい?」と聞いてしまった僕が悪いのだ。
聞いた以上、そして食べたいものを言われた以上、何が何でも彼女の希望を叶えなければならない。
そこで、接待に使っていた、取って置きの料亭を彼女のために予約した。
料亭では日本酒が定番だった。
ところが、今では焼酎を置くところが増えている。
焼酎が安い酒だった頃は、焼酎では高い料金を取れなかったため、焼酎は料亭には入れてもらえなかった。
それが今では、純米大吟醸よりも高価な焼酎が出現し、すっかり料亭での地位を確立してしまった。
銀座の高級クラブでも焼酎は幅を利かせている。
ワインは元々高級クラブの常連だったが、料亭では未だに地位を確立できていない。
それは、ワインは種類が多すぎて、客の好み・要求に応えられないこと。
多くのワインを揃えるためには保管施設の設置が必要であり、コストがかさむこと。
そして高価な強い赤は、日本料理の味を壊してしまうと考えられているためだ。
私も彼女も、時には和食を食べたくなる。
ミシュラン・ガイドに乗っているようなカウンター日本料理店には、ワインを置いているところが多いが、個室で二人だけで食事を楽しめるような大きな料亭では、なかなか好きなワインを選んで飲めるような所は少ない。
そんな時に重宝しているのが、『桃仙郷』(神楽坂)だ。
ここは、靴を脱いで店に上がり、磨きこまれた廊下の左右にずらりと並んだ個室で会席料理を味わえる店でありながら、大きくて立派なセラーを備えているのだ。
その2/3には厳選された日本酒が並び、残り1/3にはワインがぎっしりと詰まっている。
和食と言うこともあり、シャンパーニュ、シャルドネやソーヴィニヨン・ブランといった白ワインと、赤ワインはブルゴーニュのピノ・ノワールを中心にかなりの種類が揃っている。
個室に入る前に彼女をセラーに隣接する部屋に案内し、ガラス越しにワインを選ぶことにした。
ところが、セラーを覗き込みながら、彼女は大変なことを言い出した。
「ここが好いな。ここでお食事をしたい!」
二階にある掘りごたつの部屋を予約していたが、彼女の一言で、お店の人に食事のセッティングを二階の個室から、一階のワイン・セラーに隣接した部屋に移動してもらうこととなった。
最初に選んだ白は、セインツベリー、シャルドネ・カルネロス、2007年。
世界最高のシャルドネと言われる逸品である。
やはり和食には白が良く合う。
しばらくすると、彼女は少し寒いと言い出した。
当たり前です。
ワインセラーの大きなガラス窓のすぐ横で食事をしているのです。
背広の上着を脱いで彼女の腰に巻き付けると、「ありがとう」と言ってにっこりとほほ笑む。
しばらくすると、小さな陶器製のコンロに乗った陶板が出てきた。
霜降り牛の陶板焼きだ。
ここで、ブルゴーニュの赤に切り替える。
ジャン・ショーヴネ、ヴォーヌ・ロマネ、2004年である。
ピノ・ノワールの酸味とタンニンの調和が美しい。
しっかりとしたボディを持ちながら、和食との相性がとても良いワインである。
突然、和食でワインを飲みたいと言い出した彼女。
店でも唐突にセラーで食事をしたいと言い出し、食べ始めるとセラーは寒いと言う彼女。
こんな彼女が大好きです。