大変な出張だった。
上海での交渉は予想外に難航し、決裂の危機を何度も迎えた。
それらを何とか乗り越えて、契約調印に漕ぎ着けたものの、疲労困憊のあまり達成感は感じなかった。
虹橋空港から羽田空港に帰着しても、疲れは残ったままだった。
そこで車に乗り込むと行きつけの店に電話し、席を確保した。
『メルシャン・サロン』(京橋)の席を当日に取ることは至難の業だが、今夜は幸運にもテーブルが一つ空いていた。
一人で静かに飲みたい気分だった。
彼女に電話し、心の癒しを求めたい気持ちもあったが、こんなに疲れ果てた自分を彼女に見せたくはなかった。
羽田空港から都心までは電車だと一時間近くかかるが、車だと高速が渋滞さえしていなければ、30分もあれば着いてしまう。
機内では食事をする元気も無かったので、お腹は空いていた。
しかし、料理を選ぶ力も残っていなかったので、お任せで頼んだ。
行きつけの店は私の好みを熟知しているので、こんな時は本当に助かる。
ワインは、強い赤を一本選んでくれるように店長に頼む。
何時もは、ブルゴーニュかトスカーナを進めてくれる店長が、珍しいワインを一本、私のテーブルに運んできた。
それは、アルマヴィーヴァ、2006年。
なんと素晴らしく、嬉しい選択であることか。
フランスの巨匠、バロン・フィリップ・ド・ロートシルトと、チリの名門、コンチャ・イ・トロのジョイントで造られる、スーパー・プレミアム・ワインだ。
カベルネ・ソーヴィニヨン72%、カルメネール28%のセパージュで、あくまで濃く深く、心に滲みるワインである。
店長は、素敵な女性。
その気遣いに、心が和む。
ワインの名前は、モーツァルトのオペラ、「フィガロの結婚」に登場するアルマヴィーヴァ伯爵のこと。
エチケットのアルマヴィーヴァの文字は、作家ボーマルシェの筆跡。
ボーマルシェは、18世紀のフランスの劇作家で、ロッシーニのオペラ、「セビリアの理髪師」や、モーツァルトの「フィガロの結婚」の原作者として有名である。
また、エチケットの図柄は、古代チリの祭礼用の太鼓に描かれた太陽と宇宙を表すデザインである。
ところで、アルマヴィーヴァ伯爵といえば、フィガロの結婚相手、スザンナに言い寄る好色な人物。
なるほど、そんなアルマヴィーヴァ伯爵の名を冠するワインだけあって、飲むほどにすっかり元気になってしまいました。
素敵な店長と、モーツァルトと、ボーマルシェと、バロン・フィリップ・ド・ロートシルトと、コンチャ・イ・トロに感謝感謝の夜でした。