ブロンプトンでしまなみヒルクライムシリーズ。

 

 

すでに1か月前の話になるが、しまなみ海道の大島で展望台が設けられた高い山の一つ、カレイ山のてっぺんにある展望台までブロンプトンでヒルクライムしてきた。

 

午前は岩城島の積善山に登ってきたが、生口島の瀬戸田でランチを済ませて、午後、自転車道を大三島と伯方島を経由して大島まで走って、標高232メートルのカレイ山てっぺんにある展望台をめざす。

 

カレイ山ヒルクライム(立体マップ)

 

大島は昔から墓石などに使われる高級石材「大島石」の産地だ。これから登るカレイ山(早川)も大島石(大島石カレイ)が採れることで有名で、山のあちこちに石切り場がある。昔、この島での成り上がりパターンは、借金をして山の権利とマイトを買って、山を爆破して表土を取り除いてみて、大島石特級が出たら大金持ち、屑石とか土しか出なければ借金取りから逃れるために広島か松山へ夜逃げと相場が決まっていたようだ。

 

閑話休題。カレイ山のヒルクライム動画をお楽しみください。海賊の見張り台をイメージしたような展望台の上に登ると絶景が待っていた。

 

伯方・大島大橋と伯方島だ。

 

真下に船折瀬戸。朝いちばんにヒルクライムしてきた岩城島の積善山も伯方島の奥に見えている。

 

そして宮窪町。しまなみ海道がなんとか3番目の瀬戸内架橋として実現したのは、四国側に有力政治家が居たことが大きいのだが、宮窪村初代村長の村上紋四郎氏にはじまる政治家一家である村上ファミリーの貢献も小さくない。宮窪村初代村長の村上紋四郎氏はこのド田舎から県会議員、衆議院議員、そして今治市長と上り詰めた立志伝中の人物だ。紋四郎の長男の常太郎が大審院検事、その二人の息子(紋四郎の孫)の一人は大蔵事務次官、もう一人は通産省役人から衆議院議員となった。その息子(紋四郎の曽孫)は村上誠一郎・現衆議院議員だ。皆、東大出で優秀だ。

 

昭和40年代(1965年頃)当時、瀬戸内海の本州と四国を結ぶ橋、いわゆる本四架橋には3ルートの案があって、それぞれが重要性を主張して熾烈な争いを繰り広げていた。今、しまなみ海道と呼ばれている尾道今治ルートは、児島坂出ルート(鉄道併設)や淡路島ルート(関西直結)と比較して経済効果が小さいとされ、きわめて劣勢にあった。しかし、大島を含む島の皆さんは島100年来の悲願であるとしてへこたれることなく、今治の有力者も加わって政府に強烈な陳情を行った。島嶼部を含む愛媛県民からのほぼ脅しともいえるような突き上げを背景に、村上議員も含む愛媛の国会議員団・県議団は、佐藤内閣当時の実力者田中角栄(大蔵大臣、自民党幹事長)に対して必死の働きかけを続けた。そしてついに田中は折れて、1970(昭和45)年度の予算編成の際に「橋は1本でいい」とする当時の首相であった佐藤栄作氏を説きふせて3ルートすべての建設を決めたのだ。

 

その時の決定の流れで、我々の大好きなしまなみ海道の今があるというエピソードである。

 

しまなみでは地味目の大島だが、私はとても気に入っている。また来るよ大島、また登りに行きますよカレイ山。

 

 

関連記事:

 

 

 

 

あなたの清き1クリックをお願いします!

 

にほんブログ村 自転車ブログ ミニベロ・折りたたみ自転車へ  にほんブログ村 旅行ブログ 源泉掛け流し温泉へ  ブログランキング・にほんブログ村へ