B'z 『Q&A』のMVのストーリー考察してみた。
B' z The Best XXV 1999-2012 初回限定版 にて、 新曲『Q&A』のMVフルver.を視聴し 、ストーリーにはどんな意味が?かなりマニアックです(笑)(^_^;)

『志』・『玲』はそれぞれ稲葉さんと松本さんの好きな漢字一文字ということ。


以下考察。

剣士「我が心は玲なり」



敵「王の命令に背くか…お主、武士(もののふ)の志を忘れたか」



剣士「我が心は玲なり」




♪曲

剣士「我が心は刃の下にあれども志は捨てぬ。王の命令に背けども 我が心は玲なり」




会話から、二人は同じ王に仕える『同 志』だったと思われる。 剣士は主命に背き、かつての仲間と斬り合いの末、相手の顔面に傷を負わせる。 剣士の心は乱れず、常に「我が心は玲 なり」と繰り返し唱えている。 自宅と思われる縁側に向かう剣士の手には書状が。(密命?)
↓ 妻と連れだって歩いていた所を敵に背後から撃たれ妻が死ぬ。(復讐された ) 妻が書状を握り安心させるかの様にうなずく。





【この場面での歌詞は「誰もがゆずれない正義を抱いて」】
敵の銃の弾を刀で弾き返して倒す。




恐らく敵は顔面を切られた事への復讐 (私怨)の為に刀(=武士の魂)を捨 て銃を取った。 剣士は己の信じる正義の為、志を貫くも その為に大切な妻を失ってしまう。

※最後の会話の考察

【我が心は刃の下にあれども】=『忍 』 (稲葉さんがマイクスタンド抜く時だけ(?)書いてある文字が『忍』)




【志は捨てぬ】=志=刀(=刀は捨て ない→剣士の事)

【王の命令に背けども我が心は玲なり 】 =(行動が)王に背いている様に見えても、忠心を尽くしている。 (しかし大切なものは失った=正義な のか?)




『王』の命『令』すなわち玲なり、斬られた怨念だけで先走り刃を捨て銃を手にしたお主よりは、志(剣・自分の信じた道)は曲げぬ。
それが、(玲)なり。






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長州征討(ちょうしゅうせいとう) は、1860年代に、江戸幕府と毛利氏長州 藩の間で2度にわたって行われた戦いである。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。


坂本龍馬が作成したとされる海戦図




第二次の長州征討は第二次幕長戦争とも、 また幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の4方から攻めたため、長州側では四境戦争と呼ばれる。第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力がほぼ無くなる結果を招いた。そのため、この敗戦が徳川幕府滅亡をほぼ決定付けたとする資料も見られる。

1865年(慶応元年)、長州藩では松下村 塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して保守 派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させた(元治の内乱)。高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約を 通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。また、長防士民合議書を36万部印刷し、士農工商隔てなく領内各戸に配布することで領民を一致団結させた。

14代将軍徳川家茂は大坂城へ入り、再び長州征討を決定する。四境戦争とも呼ばれている戦争であるが、幕府は当初5方面から長州へ攻め入る計画だった。しかし萩口を命じられた薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長盟約で密かに長州と結びついており、出兵を拒否する。そのため萩口から長州を攻めることができず、4方から攻めることになった。幕府は大目付永 井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。

1866年(慶応2年)6月7日に幕府艦隊の周 防大島への砲撃が始まり、13日には芸州 口・小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮された。

大島口では、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松 山藩が担当した。宇和島藩は幕府の出兵命 令を拒んだ。長州側は戦力分散を避けるため大島を重要視しておらず大島守備兵は地元民で構成された少数の練度の低い兵であった。征討軍は守備兵を容易に退け大島へ上陸・占領を果たした。ところが占領した集落で松山藩兵が住民に暴行・略奪・虐 殺を行った惨状の結果、大島住民の敵意と 長州藩兵の士気を高め、同時に奪還論が強 まり長州上層部は大島放棄から大島奪還に方針転換。小倉口を担当する高杉晋作や本土防衛と芸州口の対処のため柳井に駐留していた世良修蔵が大島奪還の為に来援する。幕府海軍と高杉率いる艦隊が戦い、夜 間奇襲戦法により幕府海軍は敗走した。その後、世良修蔵指揮下の第二奇兵隊らが大島の奪還を果たすも、島内に逃げ散った幕府軍残党の掃討が終戦まで続く 。


奇兵隊の写真


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西南戦争の際、官軍の大隊長として指揮を取り1877年8月18日、 延岡の可愛岳での西郷軍との戦闘で戦死した迫田鉄五郎少佐。
彼は鹿児島の出身で、敵味方として戦った西郷隆盛とは旧知の仲であり28歳にして官軍の少佐を務めるほどの人物だったそうです。 






迫田鉄五郎は坂本龍馬とも交流があり、 この拳銃は龍馬から迫田に贈られた物であるそうです。

2009年には、
『土佐山内家宝物資料館』にて
「小特集 迫田家 資料」【高知市】も開催されており、幕末から明治に生きた薩摩藩士迫田鉄五郎の書状群を展示。明治初期の日本の姿が浮かび上がります。 平成15年に高知県へ寄贈された迫田家資料の小特集展示で、幕末から明治初期にかけて薩摩藩士・陸軍軍人として活躍した迫田鉄五郎の書状群を紹介。弟七郎が収集した幕末志士たちの遺墨は、幕末の激動、新政府の苦悩、西南戦争の悲惨さを現在に余すことなく伝えています。

このような事柄から、このピストルも強ち嘘とは言えず、信憑性のある証拠資料が無いだけに真意の方は定かではないが、細島には他に 官軍墓地や黒田家臣の墓などが ありますがこれらは京都伏見の寺田屋騒動、薩摩藩内紛、西南戦争などと関係したことでありこれには坂本龍馬も 迫田鉄五郎も関係しているので この二人が旧知の間柄であるという可能性はありますよね。このピストルを高知県が譲って欲しいと言って来た事もあり、譲らなかったそうです。


歴史は作られると言うか…掘り起こし、追究すると面白い事実が浮き出てくるかもしれませんね♪
日向市指定文化財
細島みなと資料館








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坂本龍馬は、生涯で2つの銃を手にしている。

1つ目の銃は、高杉晋作から上海土産として贈られ、のちに自らの命を救うことになる
「スミス& ウエッソン社製・第2型アーミー」
と呼ばれる32口径の6連式ピストルである。(写真上)

龍馬は、この全長25cmのピストルを肌身離さず持ち歩き、寺田屋事件では、実際に使用して難を逃れたが、逃走中に紛失してしまう。

次に手にした銃は、薩摩藩から妻おりょうと龍馬にそれぞれ贈られたといわれる
「スミス&ウエッソン社製・第1型1/2 ファースト・イッシュー」

22口径の5連式ピストル。(写真下)

龍馬は、姉・乙女への手紙の中で、最初のも のに比べて、かなり小ぶりである全長17cmのこの銃のことを 「懐剣より小さいが、50間(約90m)離れていても人を撃ち殺すことができる」 と述べている。

このピストルは近江屋で龍馬が暗殺された 際、引き金をひかれることなく、床に転がっていたという。






この記事は、とある所に近日中に向かうための言わば前フリである。



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私が、昨年
【高知県立坂本龍馬記念館】
に訪れた際、司馬遼太郎氏が桂浜の龍馬像の還暦に当たる昭和63(1988)年に銅像の龍馬さんへ贈ったメッセージ屏風を観て号泣したメッセージをご覧になった方も沢山いるでしょうが紹介させて頂きます。


メッセージ ~銅像還暦によせて~ 司馬遼太郎

銅像の龍馬さん、おめでとう。

あなたは、この場所を気に入っておられるようで すね。 私もここが大好きです。 世界じゅうで、あなたが立つ場所はここしかないの ではないかと、私はここに来るたびに思うのです。

あなたもご存知のように、銅像という芸術様式 は、ヨーロッパで興って完成しました。 銅像の出来具合以上に、銅像の置かれる空間が大切 なのです。 その点日本の銅像は、ほとんどが、所を得ていない のです。 昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘(い ざな)って、この桂浜の巌頭に案内してきました。 この地が空間として美しいだけでなく、風景その ものがあなたの精神をことごとく象徴しています。

大きく弓なりに白い線をえがく桂浜の砂は、あな たの清らかさをあらわしています。 この岬は、地球の骨でできあがっているのですが、 あなたの動かざる志をあらわしています。 さらに絶えまなく岸うつ波の音は、 すぐれた音楽のように律動的だったあなたの精神の 調べを物語るかのようです。 そしてよくいわれるように、 大きくひらかれた水平線は、あなたのかぎりない大 きさを、私どもに教えてくれているのです。

「遠くを見よ」 あなたの生涯は、無言に、私どもに、そのことを教 えてくれました。 いまもそのことを諭すがように、 あなたは淼萢(びょうほう)たる水のかなたと、雲 の色をながめているのです。

あなたをここで仰ぐとき、志半ばで斃(たお)れ たあなたを、無限に悲しみます。

あなたがここではじめて立ったとき、 あなたの生前を知っていた老婦人が、高知の町から 一里の道を歩いてあなたのそばまできて 「これは龍馬さんぢゃ」 とつぶやいたといいます。 彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たので した。

私は三十年前、ここに来て、はじめてあなたに 会ったとき、 名伏しがたい悲しみに襲われました。 そのときすでに、私はあなたの文章を通して、精神 の肉声を知っていましただけに、 そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちま した。

「全霊をあげて、あなたの心を書く」 と、その時つぶやいたことを、私はきのうのよう に憶えています。

・・・ここまでで、メッセージの約半分それよりすこし前、まだ中国との間に国交が開 かれていなかった時期、 中国の代表団がここにきたそうですね。 十九世紀以来の中国は、ほとんど国の体をなさ ないほどに混乱し、 各国から食いあらされて、死体のようになってい ました。 その中国をみずから救うには、風圧のつよい思想 が必要だったのです。

自国の文明について自信の強い中国人が、そう いう借り衣で満足していたはずはないのですが、 ともかくもその思想でもって、 中国人は、みずからの国を滅亡から救いだしまし た。 ですから、この場所であなたに会ったひとびとは 、 そういう歴史の水と火をくぐってきたひとだった のでしょう。

そのなかの一人の女性代表が、あなたを仰いで 泣いたといわれています。 その女性代表はあなたについて多くを知っている はずはないのですが、 あなたの風貌と容姿をみて、あなたのすべてと、 あなたの志、 さらには人の生涯の尊さというものがわかったの です。

殷という中国におけるはるかな古代、殷のひと びとの信仰の中に、 旅人の死を傷む風習があったといわれています。 旅人はいずれの場合でも行き先という目的をもっ たひとびとです。 死せる旅人はそこへゆくことなく、地上に心を残 したひとであります。

殷のひとびとはそういう旅人の魂を厚く祀りま した。 この古代信仰は日本も古くから共有していて、 たとえば「残念様信仰」というかたちで、むかし からいまにいたるまで、 私どもの心に棲んでいます。

ふつう、旅人の目的は、その人個人の目的でし かありませんが、 それでも、かれらは、残念、念を残すのです。

あなたの目的は、あなた個人のものでなく、 私ども日本人、もしくはアジア人、さらにいえば 人類のたれもに、共通する志というものでした。

あなたは、そういう私どものために、志をもち ました。 そして、途半ばにして天に昇ったのです。 その無念さが、あなたの大きさに覆われている私 どもの心を打ち、かつ慄(ふる)えさせ、 そしてここに立たせるのです。

さらに私どもがここに立つもう一つのわけは、 あなたを悼むとともに、あなたが、世界じゅうの 青春をたえまなく鼓舞しつづけていることに、 よろこびをおぼえるからでもあります。

「志を持て」 たとえ中道で斃れようとも、志をもつことがい かにすばらしいかを、あなたは、 世界じゅうの若者に、ここに立ちつづけることに よって、無言で諭しつづけているのです。

きょうここに集まった人々は、百年後には、も う地上にいないでしょう。 あなただけはここにいます。 百年後の青春たちへも、どうかよろしく、という のが、今日ここに集っている人々の願いなのです 。 私の願いでもあります。

最後にささやかなことを祈ります。 この場所のことです。 あなたをとりまく桂浜の松も、松をわたる松籟の 音も、あるいは岸打つ波の音も、 人類とともに永遠でありますことを。











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