来る9月7日、B'zの25周年ライブPleasureに参戦してまいりました!




チケットが取れてから昔B'zは、デビュー作からずっと聴いていたが、長い間離れていたが新たにB'zのアルバムを全て買い揃えシングルを聴き込み、B'z漬けの3ヶ月で長年のファンからすれば、付け焼き刃だか青春時代お世話になったB'zに失礼のないように挑んだ今回B'zとしては初のLIVE-GYM体験。

日が近くなるにつれドキドキ、ワクワクし、迎えた前日早々といざ、福岡へ出発!!

なんと、午前9時前に到着♪








多数のツアートラック!!



B'zのシェイクハンド像

グッズを購入、凄い人!
さすがB'z空は雨(笑)


続々と集まる人!

長~い時間を経てようやく開場の14時45分!

不安な席は、1塁側スタンドバックネット…ネットが(;゚ロ゚)邪魔

そこから開演の17時まで沸々とたぎる血を抑え待つ、ただ待つ。
スクリーンには、未公開を含む過去のライブ映像が流れ2周は、同じ映像を観ていざ!!開演♪

オープニングは、数本の柱が立ち上がり動いてXXV(25)の文字が出来上がり炎が付きいよいよB'z登場!

いきなり新曲でかっ飛ばし感動で涙が溢れ出す。5曲目辺りまで拭っても拭っても溢れ出す涙。

青春の1コマ毎にB'zがあり、B'zと共に生きてきた事を実感。

あんな曲の時、自分は、何歳であんな事考えてていっぱい困難やイイ事も思い出し、蘇る記憶。

稲葉さんのシャウトにこれでもかっ!って声でついていき。

稲葉さんのMC
思い出しながら…

皆さん今日は燃えてますかぁー!?
この5年毎のPleasure楽しんでいただけましたかぁ??また、5年後、10年後皆さんの前でPleasureが出来、お逢いできるまで、我々B'zあがき続けたいと思います。悪あがきって言う人がいるかもしれませんが、まだこの火を消したくないんです。皆さんも今日、燃やした火を燃え尽きて灰にするんじゃなく、あがいてあがいてあがきまくってその火を消さないように頑張ってこの5年毎のPleasureが出来る様に我々は、皆さんがモチベーションです。また火を消さない様に逢える日まで!今日は、ARIGATO!最高だったぜぇ~!福岡~!気を付けて帰ってくださぁ~い!」


稲葉さんのコトバ
しみたぁ~!(T_T)

B'z カッコよすぎ!!
B'z遠かったけど(>_<)
素晴らしい最高のパフォーマンスをARIGATO!!
また、お逢いできるまで!



せぇ~の!
おつかれぇ~!!












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新政府綱領八策
(しんせいふこうりょうはっ さく)は、坂本龍馬が慶応3年(1867年)11 月に示した維新後新政府設立のための政治綱領である。現在龍馬自筆本が2枚残っており、国立国会図書館と
下関市立長府博物館に所蔵されている。




第一義 天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ 

第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷 ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク

第三義 外国ノ交際ヲ議定ス
 
第四義 律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ 大典ヲ定ム律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ユ 

第五義 上下議政所 

第六義 海陸軍局 

第七義 親兵 

第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス

右預メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云云 
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下萬民ニ公布云云 
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ

慶応丁卯十一月 坂本直柔

現代語訳




一、天下の政権(徳川の政権)を朝廷 に奉還させ、政令は朝廷より出されるべし。
 
一、上下(二つの)議政局を設置し議 員を置いて、万機(全政治)を参賛( 参加し助け)させて公議(おおやけの 議論)で決定すべし。
 
一、有能な公卿・諸大名及び天下の人 材を顧問に登用して官位・爵位を(朝 廷から)賜って、従来の有名無実(名 ばかりで無能)の官を除外するべし。 

一、外国との交際(交渉)は広くおお やけに議論して決定し、新たに至当( 至極当然)の規約を成立させるべし。
 
一、古来の律令を折衷(取捨選択)し 、新たに無窮(永久に堪える)の大典 (重要な基本法)を撰定すべし。

一、海・陸軍を拡張すべし。 

一、御親兵(朝廷防御兵)を置き帝都 を守護させるべし。
 
一、金銀物価(交換レート)は諸外国 の平均比率となる法を設けるべし。

龍馬が残したラストメッセージ
人材登用、二院制、為替レート、軍隊の強化など商人のDNAを持った龍馬が様々な人に出会い学んだ集大成。

当時から情報を制し、ニーズ、仲介を察知し鋭い国際感覚と経済感覚で幕末を違った視点で見つめた龍馬。

人との出会いが彼を大きくし、知識の集積でもある。

船中八策が有名だが、そもそも直筆が残っておらず長岡謙吉の代筆から孫引き孫引きで出回っており、歴史のテキストとしては…


下関市立長府博物館が所蔵してますが、展示しているのか??
福岡行くついでに下関まであしをのばそうと目論んでます♪(*^▽^*)






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かつて「鎖国」政策がとられていた江戸時代、密かにオランダへ渡った延岡人がいました。
名は満石禎三郎
(みついし さださぶろう)。
人呼んで「オランダ 貞」(禎)。 禎三郎は天保3年(1832)、港町として栄えていた大武(現延岡市大武町)の商家(酢屋)に生まれました。
嘉永元年(1848)17歳のとき、延岡を抜け出して長崎に行きます。ここでオランダの商人・ゼーモウスに接近、彼は禁を犯してまで海外へ出ようとする禎三郎の勇気と熱意に心を動かされ、オランダヘ連れて行くことにしました。
オランダに入国した禎三郎は学校に通い、航海術や造船、機関技術を学んだほか、ヨーロッパ各地を巡って色々な知識を身につけました。
嘉永6年(1853)ゼーモウスとともに日本へ戻りましたが、間もなくゼーモウスが死去したため、禎三郎は延岡に帰ってきます。
2年ほど実家で過ごし、
安政2年(1855)再び延岡を出て今度は江戸へ行き、オランダが幕府に贈った「観光丸」の乗組員になります。
ところが、あまりにも操船が上手なため、オランダへ渡ったのがバレそうになり、観光丸の仕事をやめて、函館に渡りました。
ここで、伊予(愛媛)出身の奇才・ 武田斐三郎(あやさぶろう=五稜郭の設計者)

と知り合い、世話になります。

そのころ、
帆船・箱館丸(56トン)
亀田丸(46トン)
の建造に携わっています。
文久元年(1861)4月には、斐三郎とともに亀田丸に乗って、シベリ ア (ロシア)のニコライエフスクで貿易したり、地理や風俗調査をしました。後にカムチャツカ方面でも貿易をしています。

明治元年(1868)の戊辰戦争のとき、軍艦を率いて 函館にきた榎本武揚の幕府軍に付きますが、幕府軍は官軍に圧倒されて降伏。しかし、貞は秀でた航海術が見込まれ、
官軍の軍艦「丁卯」
(ていぼう=236トン)の艦長として登用されています。貞が艦長を務 めたのは「第一丁卯」か「第二丁卯」かは不明。
貞は日本郵船
(日本国郵便蒸気船会社と三菱商会が合併して設立)の前身「日本国郵便蒸気船会社」


所有の
「猶龍丸」(ゆうりょうまる)の船長にもなっています。猶龍丸は、旧伊達藩(宮城県)出身の北海道開拓者 (屯田兵)の輸送などをした船です。
こうして貞は、黎明(れいめい)期の日本の造船・海 運・貿易の道を切り開き、明治26年(1893)、6 1歳で世を去りました。延岡という小さな町の少年が、大きな志を抱いてオランダに渡り、そこで学んだ技術を生かし、海洋国日本の発展に尽くした功績は、賞賛に値する活躍をした貞ですが、それを詳細に記した文献は、残っていません。というのは、密航者 だったこともあって、明治になるまで本名や海外渡航の事実を隠したからだと思われます。 「オランダ貞」の子孫にあたる人は、今も延岡に住んで おられるそうです。しかし、貞に関する文書や遺品がないのが 残念です。もう一つ残念なのは、貞を顕彰する碑や行事もないことです。

彼が生きた年代
天保3年(1832)~明治26年(1893)

坂本龍馬
天保6年(1836)~慶応3年(1867)





岩崎弥太郎
天保5年(1835)~明治18年(1885)




龍馬のやろうとしていた世界の海援隊は、まさに弥太郎の三菱商会であり、蝦夷地開拓でもある。



龍馬さんが生きていれば「海」というキーワードだけで自ずと二人が繋がる。土佐の英雄と同じ時代を生きた延岡人がいた!
まさに延岡のジョン万次郎



新島譲(八重の夫)




山本覚馬(八重の兄)


等の幕末維新の先覚者に匹敵する人物だ!!



宮崎県北情報サイト「0982.tv」
内の県北よもやま歴史#007より文章を一部抜粋させて頂きました。


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最近、心の葛藤が続いている。
今、現在の職にくぎりをつけ何か人に歴史を伝えたりする仕事がしたい!
観光誘致や観光ガイドの様な歴史の素晴らしさ、先人達の偉業、何を考え、何を夢みて散っていったのかを現在の人々に伝えたい!
とずっと思っていますが、現実は…

地域に根付いた観光の職もなかなかみつからず、なんなら高知へ行き、坂本龍馬や幕末志士達に触れて生きたいが…故郷に親を残して出れず。

今の職(介護)を辞めて次の職を探すのもなかなかで…

逆に今、両親が元気なうちに5年でも10年でも夢を追えたら…なんて考えたり、モチベーションをどこに向けるべきか葛藤しながら日々を送っている。

何も考えず飛び出したいもんだ。



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京都木屋町高瀬川沿いにあった旧土佐藩邸役宅址に建つPLEXUSビルにあった
「土佐四天王像 」が何と移動していた。
京都市右京区の嵯峨野に小倉あん発祥の由来と書かれた説明書が立っている畑があります。

その畑の近くには、いつごろ置かれたものなのかわかりませんが、土佐四天王と呼ばれる4人の像が並んでいます。

土佐四天王の像




彼らの名は、
左から吉村寅太郎
武市瑞山(ずいざん/半平太)
坂本龍馬
中岡慎太郎
で、幕末、明治維新に貢献した人物とされています。

近くの説明書には、



「これを土佐四天王という。 風雲急を告げる幕末の京洛に於いて元 治元年(1864)坂本龍馬は中岡慎太郎と長州本陣天龍寺に長州藩士の来島又兵衛、久坂玄瑞を訪ねるために立ち寄ったという口碑を伝えている。 彼らは倒幕の密議を交わし、薩長同盟を成立させ世界でも例のない無血革命の大政奉還を実現させたここ嵯峨野でも彼ら情熱ある志士たちは、藩を越え新しい日本を夢見て東奔西走していた。ここに偉大なる英傑たちの業績をたたえ後世に伝えるべく銅像を建立する。」と刻まれています。

ところで、彼らは一体どのような功績をのこしたのでしょうか。

吉村寅太郎




吉村寅太郎は天保8年(1837年に生まれました。

吉村は、文久元年(1861年)に武市瑞山が結成した土佐勤王党に加盟します。

翌年、土佐藩を脱藩し、上洛するも寺田屋事件が起こり土佐へ送還。

同3年に藩の許可を得て、再び上洛します。

そして、松本奎堂らとともに明治天皇の従兄弟の中山忠光を擁立して天誅組を結成します。

この頃、長州藩を中心に孝明天皇の大和行幸が計画され、一気に倒幕へと突き進もうとしていました。

それに先駆けて、吉村ら天誅組は大和の五条代官所を襲撃し、代官の鈴木源内を討ち取りました。

その後も十津川郷士たちを味方につけ、幕府側と戦いましたが、1カ月ほどで天誅組は壊滅し、吉村も戦死しました。

この事件は天誅組の変といい、明治維新の導火線となったと評価されています。

武市瑞山




武市瑞山は、文政12年(1829年)に生まれました。武市半平太とも呼ばれています。

文久元年に土佐勤王等を結成し、土佐藩の藩論を天 皇を敬い外国人を日本から追い出そうという尊王攘夷(そんのうじょうい)に変えるために活躍します。

翌年、土佐勤王等とは真逆の考え方を持つ参政の吉田東洋を同志の那須信吾らに暗殺させます。

その後、武市は土佐勤王党とともに京都で尊王攘夷の思想のもと、政治活動を行いますが、世論が朝廷と幕府が協力し合い国難を乗り切ろうという公武合体に変わったため、文久3年に失脚し、土佐で投獄されます。
獄中に描いた自画像。



そして、2年近くの獄中生活の後、切腹し、この世を去りました。彼の切腹は、腹を三文字に切る見事 なものだったと伝えられています。

坂本龍馬と中岡慎太郎






坂本龍馬は天保6年(1836年)生まれ、中岡慎太郎 は天保9年生まれです。

2人の功績と言えば、慶応2年の薩長同盟の締結を成功させたことでしょう。

これまで仲の悪かった薩摩藩と長州藩の間に入り、両者を結びつけたことは、明治維新に大きく貢献したと言えます。

また、坂本龍馬は、慶応3年に幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還の実現にも貢献しました。

しかし、坂本も中岡も大政奉還の実現直後、近江屋で暗殺されました。

以上、簡単に4人の功績を紹介しました。

彼らは、志半ばで亡くなってしまいましたが、明治維新のために重要な働きをしたと考えられています。





旧暦で11月15日は、龍馬さんの命日とされていますが、龍馬さんが暗殺された時期は、今の12月です。

ですから、12月に上洛しようかと密かに目論んでる所。

是非、この嵯峨野の地に行きたいと思う今日この頃なのである。

勿論、霊山護国神社に眠る龍馬さん、慎太郎さん、下僕 藤吉さんの墓参り等と伏見も行きたいです♪


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