長州征討(ちょうしゅうせいとう) は、1860年代に、江戸幕府と毛利氏長州 藩の間で2度にわたって行われた戦いである。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。


坂本龍馬が作成したとされる海戦図




第二次の長州征討は第二次幕長戦争とも、 また幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の4方から攻めたため、長州側では四境戦争と呼ばれる。第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力がほぼ無くなる結果を招いた。そのため、この敗戦が徳川幕府滅亡をほぼ決定付けたとする資料も見られる。

1865年(慶応元年)、長州藩では松下村 塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して保守 派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させた(元治の内乱)。高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約を 通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。また、長防士民合議書を36万部印刷し、士農工商隔てなく領内各戸に配布することで領民を一致団結させた。

14代将軍徳川家茂は大坂城へ入り、再び長州征討を決定する。四境戦争とも呼ばれている戦争であるが、幕府は当初5方面から長州へ攻め入る計画だった。しかし萩口を命じられた薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長盟約で密かに長州と結びついており、出兵を拒否する。そのため萩口から長州を攻めることができず、4方から攻めることになった。幕府は大目付永 井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。

1866年(慶応2年)6月7日に幕府艦隊の周 防大島への砲撃が始まり、13日には芸州 口・小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮された。

大島口では、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松 山藩が担当した。宇和島藩は幕府の出兵命 令を拒んだ。長州側は戦力分散を避けるため大島を重要視しておらず大島守備兵は地元民で構成された少数の練度の低い兵であった。征討軍は守備兵を容易に退け大島へ上陸・占領を果たした。ところが占領した集落で松山藩兵が住民に暴行・略奪・虐 殺を行った惨状の結果、大島住民の敵意と 長州藩兵の士気を高め、同時に奪還論が強 まり長州上層部は大島放棄から大島奪還に方針転換。小倉口を担当する高杉晋作や本土防衛と芸州口の対処のため柳井に駐留していた世良修蔵が大島奪還の為に来援する。幕府海軍と高杉率いる艦隊が戦い、夜 間奇襲戦法により幕府海軍は敗走した。その後、世良修蔵指揮下の第二奇兵隊らが大島の奪還を果たすも、島内に逃げ散った幕府軍残党の掃討が終戦まで続く 。


奇兵隊の写真


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