黒田の家臣 宮崎県指定史跡




寺田屋事件と呼ばれるのは1862(文久2)年に 発生した薩摩藩尊皇派の鎮撫事件と、1866(慶応2)年に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃 事件の2件あるが、日向市細島には前者の寺田屋事 件で捕らわれた勤皇の志士の墓がある。



当時の薩摩藩主の父であり、事実上の権力者であっ た島津久光は軍勢約千名を率いて上洛した。

倒幕を企てる尊王派は久光の統幕戦を期待したが、 久光はこのとき倒幕ではなく公武合体を目指してい た。

薩摩(脱)藩の有馬新七らはこのことに不満を持 ち、関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決め、薩摩藩の定宿であった伏見の寺田屋 に集った。

久光は大久保一蔵(利通)を遣いにたてて、企てを 止めるよう試みたが成功しなかった。

久光は自ら説得をするために有馬等の同志である尊 王派の藩士(剣術に優れた大山綱良等)を派遣して 藩邸に来るよう仕向けた。

有馬はこれも拒否、ついに戦闘となり、有馬等6名 が死亡、2名が重傷を負った。

2階にいた藩士が刀を持たずに仲裁に入り、重傷の 2名は投降し、後に切腹した。

このとき有馬等と行動を共にするために各地から集 まっていた脱藩の勤皇の志士たちの多くが捕らわれ た。

彼等はそれぞれの藩に引き渡されることなったが、 引き取り手のない志士は薩摩藩に引き取ると称して 船に連れ込んで斬殺し、海に投げ捨てたと言われて いる。

江戸期、細島港は薩摩藩を含めて参勤交代のための 港として使われていた。

引き取る先のない志士たちは薩摩藩の船に乗せら れ、瀬戸内海、豊後水道を経て細島港の沖合いまで きた。

そして、港に降ろされることもなくこの古島で密か に殺された。

遺体は細島の住人、黒木庄八により発見された。

当時細島を含む現在の日向市は天領であったので、 事件は江戸幕府の富高代官所が調べにあたった。

遺体は3体で、1人は身につけていた腹巻から秋月 黒田の海賀宮門、残りは肥前の中村主計、但馬国の 千葉郁太郎であろうということになった。

発見者の黒木庄八は死者を哀れみ、墓を建てて祀っ た。



以後、黒木家の子孫により墓守が続いている。

島には3人の志士の墓の他「黒木庄八翁の碑」と ともに、山県有朋書による「赤心報国之碑」が並んでいる。





日向市民は昭和9年、「海賀宮門他二士の墓」とし て宮崎県の指定史跡となったこの島を「黒田の家臣」と親しみを込めて呼び、春から夏にかけてはこ の島の周辺で貝獲りや魚釣りに興じ、側の御鉾ケ浦では海水浴もする。

寺田屋事件で鎮撫使として参加し、志士を斬ったとされる柴山矢吉は後に発狂したという。

柴山に止まらず、鎮撫使として参加した側には不幸な末路をたどったものが多いという。

一方で、生き残った尊皇派の志士には維新政府で要職についたものが多い。

そして、もうひとつの寺田屋事件の当事者、坂本龍馬は(龍馬の)寺田屋事件の翌1867(慶応3)年、近江屋事件で暗殺された。




ついでに近くの願いが「叶」うと言われるクルスの海



叶うという字に見えますか?
そして、またまた近くの大御神社の登り龍を観てきました。

なかなか歴史探訪とロマン溢れるドライブとなりましたo(^-^)o



Android携帯からの投稿

北海道を代表するお菓子メーカーといえ ば、六花亭。 植物のイラストをあしらったデザインで 有名ですが、
これは釧路市出身の画家・
坂本直行(なおゆき/チョッコウ)

が手がけたものです。 1915年、小学校3年生のチョッコウさん

よく山に登っては絵を描いていたといいます。 長じて北海道大学に入ると、農業を学び ます。卒業後は一度上京し、園芸会社に 就職。2年後に再び戻り、紆余曲折の末、 十勝・広尾郡広尾町の牧場で働くことに なりました。 農民として生きてきたチョッコウさん が、ついに画業に転向したのは54歳の 時。六花亭の仕事を始めたのもこの頃 で、ずいぶん遅咲きでした。

チョッコウさんは、生粋の画家というより、やっぱり死ぬまで農民だったのだと思います。ほわっとしたやさしいタッチの中に秘め られた力強さ、みずみずしい生命力。

実際に土に触れている人でない と。それに、六花亭の合言葉は「お菓子 は大地の恵みです」。 チョッコウさんの作品は、六花亭工場に隣接された六花の森の、 坂本直行記念館で観ることができます。

ちなみに、チョッコウさんは、
坂本龍馬 の甥っ子のお孫さんなんです。




Android携帯からの投稿
大師祭り!

地元のお祭りながら、初めてパレードに参加しました♪

延岡龍馬会として

わたくしの右側に写るのは…
な、ななんと!?
全国龍馬社中会長 橋本邦健氏です!


高知は桂浜近くに高知県立坂本龍馬記念館設立の為に10億もの募金活動をし、設立後はそっくり高知県に渡した。というそれはそれは凄い方。

あの、日本初の人名を冠した空港。
高知龍馬空港も橋本会長の取り組みです。

そんな会長の本にサインを頂くだけでも凄いのに隣り合わせに2人で話せる貴重な体験もさせて頂いた。



パレードにも参加して下さいました!
今龍馬など称される会長、全く偉ぶる様なところもなく気さくに私ごときに気軽に接して頂き、感無量です。





前日からは、全国龍馬社中理事 初代長崎龍馬会会長 柴崎氏とも親しく接して頂き、長崎の坂本龍馬像を建てた話は、凄く勉強になりました。

勿論、こんなに貴重な体験・出逢いを下さった延岡龍馬会 会長であり、OTOGIの金子裕則さん
延岡龍馬会 幹事長・会長補佐であり、OTOGIの河村泉兵衛さんあっての事。

本当に感謝です。

橋本会長とお話しさせて頂いて会長は
「龍馬を見上げるな!龍馬に追いつけ追い越せでやらにゃ~ただ、龍馬が好きだと見上げるだけで何もしないじゃいかんぜよ!おまんらぁは、まだ若いんじゃき、人生でデッカい満塁ホームラン撃て!撃てば後は自ずとネットワークが広がるき、やりたいことがやり遂げ易くなるがぜよ。」

グサッと響いた。

何にもせずに死ねるか!!

と同時に胸の奥の何かがフツフツとしてきた。

とかく、自分にとってはただ、祭りに参加した。でなく、人生のターニングとなるような出来事となりました。



Android携帯からの投稿



延岡藩略史

延岡藩(のべおかはん)は、日向国北部と 現在の宮崎市の北部を領有した藩で、牧野 氏以降明治維新までは豊後国等の一部をも 領有した。また、有馬氏期までの延岡は縣 (県)と称していたので縣(県)藩(あが たはん)とも呼ばれる。藩庁は縣城(延岡 城)(宮崎県延岡市)。

当藩の始まりは、豊臣秀吉の九州征伐後 の天正15年(1587年)に豊前国香春(福 岡県田川郡香春町)周辺の領主高橋元種が 延岡南部の松尾城5万石に封ぜられたこと に始まる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の 戦いにおいて元種は、当初は西軍方であっ た。しかし、九州南部の小領主である秋月 種長・相良頼房らと密謀し東軍へと寝返っ た。これにより江戸幕府より旧領を安堵さ れ、県藩の成立をみた。慶長6年(1601 年)、元種は県城(延岡城)を築城して松 尾城より移り、以後明治維新までこの城が 藩政の中心となった。慶長18年(1613 年)、幕府の罪人水間勘兵衛を高千穂に 匿ったとして(一説には大久保長安事件の 連座とも)改易処分となり、陸奥棚倉 藩主・立花宗茂預かりとなった。

慶長19年(1614年)、肥前国日野江藩よ り有馬直純が5万3000石で入封した。

第2代藩主・康純は縣(延岡)城を修築し て城下町を整備。康純の統治38年間に今 日の城下町延岡の原型が完成した。1656 年(明暦2年)6月、今山八幡宮に梵鐘を 寄進(初代「城山の鐘」、内藤記念 館蔵)。そこに記された「明暦二年丙申六 月吉日…日州延岡城主有馬左衛門佐…藤原 朝臣康純」が延岡地名の初見である。寛 永18年(1641年)には、弟の純政に3000 石を分知し旗本としている。

第3代藩主・清純は弟の純息に1800石、純 富に1000石の新田をそれぞれ与えてい る。清純の時代の元禄3年(1690年)、郡 代・梶田十郎左衛門の圧政に不満を持った 山陰村(やまげむら)・坪谷村の領民約 1500人が家財を持ち、武器を携えて隣藩 の高鍋藩に逃散する山陰・坪谷村一揆が起 こった。この百姓一揆は翌年の幕府評定所 の裁決により領民の帰参を命じられるまで 11ヶ月間に渡って続いた。一揆首謀者の 処刑と同時に、元禄4年(1691年)、清純 は一旦改易され、改めて陣屋大名に格下げ の上、越後国糸魚川藩5万石に転封となっ た。

元禄5年(1692年)、譜代大名三浦明 敬が下野国壬生藩より2万3000石で入封 し、以後最南端の譜代大名藩となった。延 岡藩歴代中最少の石高であったが、明敬は 山陰・坪谷村一揆の後処理、有馬氏時代よ り続いていた高鍋藩との境界問題・豊後国 との国境紛争の解決に尽力した。延岡藩の 石高は表高と実高の差が大きいことが以前 より問題視されており、三浦氏によってそ の問題は解決されたと見る。正徳2年 (1712年)、明敬は三河国刈谷藩に転封 となった。

代わって三河国吉田藩より牧野成央が歴代 最高の8万石で入封した。日向国内のみな らず豊後国大分郡・国東郡・速見郡を領有 した。

第2代藩主・貞通は、奏者番、寺社奉行と 累進し寛保2年(1742年)に京都所司代と なった。その際、日向国内の3万石分を河 内・近江・丹波・美濃の領地に移された。 貞道の出世で経費が嵩み藩財政は困窮する に至った。延享4年(1747年)、三方領知 替えにより牧野氏は常陸国笠間藩に転封と なる。

代わって陸奥国磐城平藩より内藤政樹が7 万石で入封した。なお、磐城平藩には笠間 藩より井上正経が入封している。内藤氏は 前領地だった磐城平藩で起った「磐城騒 動」の責任を取らされ、懲罰的に延岡に移 封された。表の石高が同じ7万石ではある が、磐城平は実高13万石あり、実質6万石 の減封であることからそれが分かる。

内藤氏は最も長く在封し124年間この地を 治めた。なお、内藤氏8代は全て養子によ る相続という珍しい記録を持っている。内 藤氏の統治時代は財政難とそれに伴う百姓 一揆に悩まされ続けた。歴代藩主は藩政改 革に腐心し、特に第6代藩主・政順は商人 の営業特権を強制収奪し専売制を強化し た。蝋・和紙・菜種などの生産に力を注い だ。

井伊直弼の実弟である第7代藩主・政 義は彦根藩より養子に入った。藩校学寮 を広業館と改め拡充に努めた。

第8代藩主・政挙の時代に幕末・明治維新 を迎えた。譜代藩であるがゆえに佐幕の立 場を採り、薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州 諸藩の中にあって苦況に立たされた。明 治4年(1871年)、廃藩置県により延岡県 となった。後に美々津県、宮崎県、鹿児島 県を経て宮崎県に編入された。明治17年 (1884年)、内藤家は子爵となり華族に 列した。

■二の丸高石垣は、下の部分の石垣をはずすと石垣が崩れ落ち、 千人は殺すといわれて「千人殺し」の名が付いた。



北大手門




天守閣だけでもあれば、観光誘致しやすいのに…(*_*)


Android携帯からの投稿
映画 蒼哭ノ魔竜が公開され

4月からは、新TVシリーズ
牙狼-GARO-闇を照らす者がスタート!

そして、夏にはスピンオフ牙狼外伝


桃幻の笛が公開となる♪

まだまだ進化し続けるのだ!



Android携帯からの投稿