そこに確かに存在する『時』 | しょこらぁでのひとりごと

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羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。


 やっと記事を書くことが出来る。


演奏会があって、少し忙しかった。

ごくごく小さな演奏会だったのだけれど、それでもソロの演奏会となると、久し振りだったこともあって、日常生活に追われる中での準備は少々きつかった。

こういうちょっと恐い本番のインターバルが空くと、日頃の練習が如何に甘くなってしまっているか、痛感させられた。

比べるのは烏滸がましいけれども、羽生選手がどれだけ凄いか、改めて思う。

毎日の練習でどこまで自分に厳しくなれるか。

私は本気で自分に厳しくしようなんて思っていないんだ、と改めて突きつけられた気がする。

誰かに叱ってもらって、引っ張ってもらうのはアマチュアなのだと思う。。。


さて、久し振りの記事で書きたいことが溜まってしまっている。しかも羽生選手の情報は怒涛の如く更新され、書きたかったことは時期外れになっているし、その上順不同になってしまうことと思うけれど、構わず書いてゆくことにしよう。



先日、RE PRAYの舞台裏の放送があった。

見所満載だったが、その中で取り分け私が胸打たれたのは、宮城千秋楽の終了の時の彼の姿だった。

彼は何度も、観客に向かって「ありがとうございました。」と深々と頭を下げていた。

カーテンが閉じられた後にも。

その姿を見て、この人は本当に、こうやって単独公演が出来ることが《当たり前でない》と、心の底からわかっているのだ、と思って胸が熱くなった。

毎回チケットが完売しているにもかかわらず。


観客が入らなければ、どれほど素晴らしい内容であっても、次は無い。

本当にやりたいことをやって、それをあれほどの観客が観に来てくれること。

そこには彼の超人的な努力と気の遠くなるようなエネルギーが注ぎ込まれていて、観客の期待を遥かに越えた素晴らしい内容になっているにも拘わらず、彼はそれがーーあんなに沢山の観客に観てもらえることがーー当然のことではない、と考えているのだ。


そして、私はそれが、真実だと思う。

世の中には、素晴らしい内容であっても、お客の入らないことはいくらでもあるのだ。

そしてまた、それが真実であるにもかかわらず、それを忘れないでいられることは、本当に希有なことだ、ということも。


私は時々、同じ羽生ファンの一部の人たちの言動に嫌気がさすことがある。

本当にファンと言えるのか?と思うこともある。

それでもーー。

それが、あくまで私個人の価値観ではあることは別にしても、

彼が、彼の演技を観たいと思っている全ての人に感謝している、

その大勢のファンの存在を、当たり前でないと思っている。

そのことだけは、忘れてはいけない、と

あの姿を見て、強く思った。


だからといってファンが高慢になるのは論外だ。

全ての人の心を動かしているのは《彼》であって、ファンではないのだから。

当たり前すぎて、書く気にもならないけれど。



 少し前、ーー氷解水のことが出たとき、GIFTのメインビジュアルの意味について触れられているツイを目にして、なるほど、と思った。

今振り返ればあのメインビジュアルは、どれだけ時やその他の事柄が一人一人をそこからはるかに隔てたとしても、あの時間と、そこで感じたことはあそこに存在し続けるよ、という彼からのメッセージだと思う。

少なくとも彼は、あの時の星々のことを忘れることは決して無いのだと思った。

例えあそこで瞬いていた星々の中のいくつかが離れて行ってしまったとしても。


彼にはわかっていたのだと思う。

時は流れ続け、全ては同じではいられない。

常に変化してゆくということが。

それがわかっていたからこそ、それでもあの時間が確かに存在したこと、それは時が隔てれば幻のようだけれど、しかし今もそこにあるのだと

彼は伝えたかったのではないのだろうか。

(もしこの推測が当たっていたとしたら、それを公演前につくったメインビジュアルに込める彼の凄さに、改めて驚愕する)

そして、そのメッセージは、自分の意志で離れていった人のみならず、その後の彼に対する関わり方が少し変化した人、全く変わりない人含め全てのファンに対して、そして彼自身に対してのものでもあるのではないだろうか。


だから、思うのだ。


周囲が時の流れとともに変わっていくとしても、

大切なのは、彼の演技を観て、そこに《私》が感じるものだと。

その時私が感じたものは、時の流れに関係なく、真実なのだから。


私はそのことを、見失わないように、しっかりと握りしめていたいと思う。

これからも。


というわけで、今更ながら次回はダニー・ボーイについて書きたいと思います。

あの時自分が感じたことを書き留めておくのが、私にとってのブログを書く主な意義なのだから。