しょこらぁでのひとりごと

しょこらぁでのひとりごと

羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。

https://youtube.com/watch?v=-ZvJn6En9Qw&si=3cBFwkDowONMSOuy

(ここを選択して、出てくるYouTubeのマークをクリックすると動画に飛べます)

『防衛省は2026年3月末、敵地攻撃能力を持つ最大射程距離約1000kmの「25式地対艦誘導弾」を熊本の自衛隊陸軍基地に、また静岡の富士駐屯地に長距離ミサイル関連部隊の配備を開始した。

これにより周辺住民から安全保障上の懸念が表明されており、緊急避難計画の策定などが求められている。』

    ーー熊本県HPより


『政府は31日の閣議で、ミサイル攻撃を受けた場合などに国民が避難する「シェルター」の確保に向けた基本方針を決定した。』

   ーー 2026年3月31日 JIJI.COM 記事より




少し前に、『京都人の密かな愉しみ』というドラマがNHKBSであった。これは、そのエンディングの曲だ。

この曲は京都の通りの名前を読み込んだわらべ歌を元に作られている。

最初に聴いたとき、私ははっとして、一気に30年前に引き戻される思いがした。

亡くなった叔母が、このわらべうたをよく歌っていたからだ。


叔母は京都で生まれ、京都で育った。

女学校の時戦争が始まり、動員で工場で働き、戦況が酷くなってまだ幼かった私の母と(母と叔母は八つ違いの姉妹だ)祖母、祖父と共に滋賀に疎開した。母と叔母の間にいた叔父達は、戦死こそしなかったが、みんな病気で亡くなってしまったそうだ。

そのうち祖父も戦後すぐ病気で亡くなり、女三人が遺された。

叔母は教員免許を取り、教師として働いて、一家を支えた。

それから78で亡くなるまで、生涯独身だった。

若い頃は美人で、結婚の話もいくつかあったようだが、後の二人のことを考えたらとても結婚出来なかったろうと思う。


母もやがて教師になり、結婚し、私と妹が生まれた。

私と妹が音楽を勉強するにあたってお金を出してくれたのは、この叔母である。

独身で、他にお金のかかることがなくなった叔母は、貯めたお金で私たちを応援してくれたのだった。

そうでなければ、私たちはどちらかが、好きな道を諦めなければならなかったろう。


叔母にとって京都時代は、幸せな思い出に満ちていたのだろう。よくその頃の話を聞かせてくれた。


祖父の母ーーお梅さんというーーはいつも囲炉裏の前に座り、辺りに目を配りながら煙管をふかしていた、とか、幼い母はカンが強くて、女中さんを泣かせていた、とか、、、。



戦争は、全てを奪っていった。

その頃の日本中がそうであったように。

残された女三人、必死に頑張って、生き延びた。


そんな話は、多かれ少なかれどこの家でもきっとある。


今になれば、そんな叔母が出してくれたお金なのに、何故もっと頑張って勉強しておかなかったのか、と本当に悔やむのだが、若い私にはそういう気持ちが分からなかったんだよなぁ、、、、。

叔母は絵の勉強がしたかった。

時代がそれを許してくれなかった。

だから、私たちには好きな道を行かせてやりたい、そう思ってくれたのだと思う。


この歌を聞く度、私は叔母のことを考える。

そこにあったであろう、叔母のささやかな普通の幸せな日々や、夢のことを。


戦争が奪うのは、いつも、そんな普通の日常のささやかな幸せだ。



この主題歌中に挟まれているフランス語の歌詞の部分の和訳だ。


『私はこの街で生まれ

 この街で生き

 この街で夢をみる

 この街で生まれ

 この街で死ぬ


 私はこの街で生まれ

 この街で生き

 この街で歌う 』



私は毎日の穏やかな生活を守りたい。

この街並みも、周りの山々も

公園の緑も

桜の木々も

子供たちの笑い声も

仕事帰りの人々が家路へと向かう姿も

夕食時、家々から漏れる明かりも

そういった日々の何気ない光景を

守りたい。


そして何より

私の娘たちが帰る家と

そこに待つ日常を守りたい。


だから、私は戦争には絶対反対だ。

政府には、国民の利益のために、外交努力をもって、可能な限り戦争を回避する義務があると、私は強く思っている。