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しょこらぁでのひとりごと

羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。


まずは、今回の豪雨の被害に遭われた方々に、お見舞い申し上げます。また、まだその最中にある地方もあります。どうか被害が少しでも少なく済みますように、お祈り致します。



《The First Skate》、配信を観た。

やっと、観ることが出来た。

自治体がこのようなアイスショーを開催するのも異例中の異例、更に配信というのは、全くこれまでに経験の無かったことだろうと思うと、ここまで踏み込んで下さったことに心から感謝したい。


そうして観ることの叶った《The First Skate》。

私個人にとっては、この『春よ、来い』を観ることが出来た、そのことに総てが集約されたと感じている。


それは、この地で頑張っている若いスケーターさん達の演技と、世界で活躍し、現在プロとして活動しているスケーターさん達のそれぞれ流石と思わせる演技の、その先にある世界をみせてくれるものだったからだ。


それは、《未来》だった。

フィギュアスケートが秘めている可能性そのものを、目の前に展開してくれる《未来》だったと思う。

《道標》と言っても良いかと思う。

道はここまで続いている。ここまで来ることが出来るんだよ、という、道標。


素晴らしい演奏に出会ったとき、私はその中に飲み込まれてしまう。私と音楽とが渾然一体になり、その区別が無くなってしまうような感覚になる。

その感覚はごく個人的なものでありながら、他の人と共有することが出来る。

厳密には同じものを感じている筈はないのだけれど、それでも何かしらの感動を共にしたという、紛れもない事実が、そこにある。


今回の《春よ、来い》で、私はそれと同じ感覚を味わった。

私の感覚は彼の演技と渾然一体になり、ただひたすらに、それを味わい尽くした。

彼の演技は、考える必要が無いーーそんなものを止めてしまう。五感総てがその演技に絡め捕られて、ただひたすらに感じていく。

その喜び。


能登の演技会では、上半身の使い方の進歩に驚いたのだったが、今回はリンクが大きいこともあり、スケーティングの素晴らしさをも堪能する事が出来た。


同じ繰り返しの音楽でありながら、そこに込められた心の内側の揺れや変化を余すところ無くすくい上げ、それらは技巧に裏打ちされているにも関わらず技巧を感じさせないで、直に感覚に届いてくる。まるで物語を読んでいるようだ。

クライマックスに向けてあっという間に加速してゆくスケーティング、爆発してゆく彼の心の叫び。私の心の内にあるものが、それに共鳴し、共に加速してゆく、その感動を、どう表したら良いのだろう?

そして余韻をもって物語は収束する。

その物語を、旅路を、共に味わった感覚。

それでいながら、そこに紛れもなく存在する、美しさ。輝き。


このような瞬間こそが、私に、人生は生きる意味がある、と思わせてくれるのだ。


彼のスケートは、今や私にとっては、詩であり、音楽であり、物語であり、絵だ。それら一つ一つのもたらしてくれる喜びが、ここに凝縮されているように感じる。


彼のアイスストーリーは、彼の思考、感覚、その総てを一つのストーリーと彼のスケートに載せて届ける、唯一無二のものだ。

そこに於ける一つ一つのプログラムの演技も、どんどん進化している。

一方で、このように彼が一つのプログラムだけに全力を注いだ時の完成度と深さは、一つの芸術として、本当に輝かしい光を放つ。

そしてこの進化は、あの過酷なアイスストーリーあってこそのものだと思う。

その両方を観ることの出来る自分は、なんと幸運なのだろう、と改めて思う。


初々しい地元の若いスケーターさん達の演技も良かったし、りかちゃんの演技も流石だったし、本田さんの演技も懐かしかったし、あっこちゃんの月の光も素晴らしかった。


しかし、羽生選手の演技は、フィギュアスケートという《枠》を全く感じさせなかった。


これこそが、フィギュアスケートの《未来》であり、《道標》だ、と私は断言したい。