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しょこらぁでのひとりごと

羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。



私は普段、ブログに政治的なことは書かない。

このブログは羽生選手を応援するブログだから。


しかし、音楽界の端くれに存在する者として、これだけは絶対に言っておきたい。


排外主義には、断固反対する。



最近の人はそうではないかもしれないが、私の年代でクラシック音楽に携わってきた人間は若い頃、多かれ少なかれ『日本人である自分がヨーロッパのものであるクラシック音楽をやる意味』について考えた時期があるはずだ。


とりわけ、留学すると、伝統というものの持つ重みを痛感せざるを得ない。

それでもやり続けたのは、クラシック音楽の持つ力の普遍性を信じたからだ。


私たちの多くは皆それぞれに、『音楽に呼ばれた』と感じる体験を持っていたと思う。

それは才能とかいうものではなくーーそんなものは自分には無いということは、私は早くに大学で痛感

させられていたーーただ激しく心揺さぶられ、自分の未来をそこに置かざるを得ないような体験をしていた。

そして、クラシック音楽はそれからの私の人生に常にあって、共に歩んできた。

失恋したときも、子ども達が生まれた時も、子育てに追われていた時も、私が打ちひしがれているときも、いつも私に力をくれた。

羽生選手との出会いも、彼と音楽との関わり方が鍵となった。


だから私は、クラシック音楽が全ての『人間』に対して持つ、力を信じている。自分たちがそうであったから。


しかしもし、クラシック音楽がヨーロッパのものであるから、日本人には理解出来ない、と言われたら、、、、、?


私の留学当時は既に、ヨーロッパのクラシック音楽界は決してそう言わなかった。(かつてはそういうこともあったかもしれない。)

当時でもそう思っている人も中にはいたかもしれないが、決して口には出さなかったし、少なくとも教授陣はまったく分け隔てしなかった。

むしろ、熱心な学生には、遠く国を離れて来ているのだから、と、少しでも良い経験が出来るよう心砕いて下さる教授も多かったと思う。


そして今日、クラシック音楽界では、日本人のみならず多くのアジア人が、世界中で活躍している。


音楽の持つ力は、言語に関係なくその場で伝えることが出来る、ということにある。

だから普遍性を持つことが出来るし、国籍や背景に関係なく、心を揺さぶることが出来る。

羽生選手の演技がそうであるように。


言い換えれば、人類には共通する感情、感覚がある、ということだ。

国の壁、言葉の壁、年代の壁、、、様々な壁を越える力が、芸術にはある。

それこそが、芸術の存在意義であると、私は信じている。


その芸術にとって、様々なものに線を引き、分断を煽るような言動や主張は、本質的に到底相容れないものなのだ。


だから、私は音楽家の端くれとして、排外主義には断固として反対する。

そのような世界の行き着く先では、芸術はいずれ切り捨てられるか、広告塔にされるか、になるのは目に見えているからだ。

壁を越えるのが芸術の持つ力であるのに壁を強化することに使われるなら、それは芸術の死を意味すると私は思っている。