RE PRAY 大楽公演ーー《鶏と蛇と豚》 | しょこらぁでのひとりごと

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羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。


 

 今日は、まずは、訂正から。

前回、白マントのプロローグの音楽を、

基本4分の9拍子と書きましたが、4分の12拍子の誤りでした。訂正してお詫び致します。

申し訳ありませんm(__)m

だから、大きく取れば4拍子になるのですが、単位の基本が3拍なので、少々取りづらい上に、

途中、多分4分の6拍子の小節と4分の5拍子の小節が組になって、二回入っていると思います。

ただ、先の記事でも書いたように、ここの部分の難しさは、とり分け、常にほぼ二小節は続くと言って良い全休符をカウントしなければならない事に有るので、どんな拍子でも、極めて難しいことに変わりはないと思います。

尚、これはモティーフが16分音符ならば、ということなので、もしあれが32分音符ならば、拍子の単位は8分音符になり、それぞれ8分の12拍子、8分の6拍子、8分の5拍子となります。


(話が戻ったついでに。

『いつか終わる夢』の巨大な人影の上ををゆっくりスパイラルで端まで行った後、それまでの公演ではゆっくり目に上げていた右足を、最後の一拍で上げるようにしたところ(伝わるかな)、めちゃくちゃ好きです。どなたかがツイに書いてらしたのを見かけて、同じだと嬉しくなりました。)



さて、先に進もう。

『いつか終わる夢』のあとはモノローグになって、「(命を)喰らう」からの

『鶏と蛇と豚』である。


プロになってからの羽生選手は、人間のダークな面も描くようになった。

少々語弊が有るかも知れないが、これは、私にはとても嬉しい。

芸術は、人間の心の闇や苦悩を直視せずごまかして作り上げれば、薄っぺらなものになってしまうと思うからだ。

ここでは、その闇が、躊躇することなく、一つの素晴らしい作品となって私達に突きつけられる。


この曲の肝は、あの力強いガッ、ガッ、ガッ、ガッというリズムだ。

このリズムは、《止め》を要求されるリズムだ。


曲の最も最初の部分のそれは、文字通り、身体は動かさずに移動する事で、その緊張感をーー何か得体の知れないものが近づいて来るようなーーを感じさせる。

その得体の知れないものという感覚は、漕がない彼のスケートの移動距離の《おかしさ》で、加速される。

それから踊りに入っていくわけだが、この《止め》から《止め》の間の流れの素晴らしいこと!

時に手だけで、時に全身で、魂が捻れるように、このリズムを《表現》してゆく。



欲望。

誰の中にもある、人間の原罪とでも言うべきもの。でも、それこそが、生きる力の源でもある筈だ。同時に、人を飲み込んでしまう恐ろしいものでもある。

その力強さと闇を突きつけてくるようなこの音楽を、羽生選手とMIKIKO先生は、この曲のプロモーションビデオとは異なる手法で、素晴らしい説得力を以て表現しきった。

あのリズムの強さが、同時にケツイの強さでもあるかのようだ。


歌が入るところでは、符割りが突然細かくなり、やがて疾走感が生まれる。ここの扱いも見事。

細かい符割りもアクセントやシンコペーションに彩られているため、動きにタイトさと切れ味が要求される。それに見事にのった上半身の動き、そして欲望とそれに伴う苦痛が暴走してゆくかのように、スケートに速さが加わってゆき、やがて囲いを破ってイナバウアーへと至る。

内側の狂気が、自我を打ち破って出てくるかのように。


台上の最後の動きに至るまで、すべてがキレがあり、洗練されており、同時に野蛮で、苦悩に満ちており、そして総てが背徳的なほどに美しい。

この美しさを味わい尽くしたいという欲望が、観ている私の中に生まれる。


これは、音楽、照明、映像、演出、振付、衣装も含めて全てが最高のレベルで揃った、凄い作品だと思う。

(衣装は伊藤さんですよね?心からの感謝を!)


以前も書いたと思うけれど、音楽面から言うと、羽生結弦の凄さは、その音楽の持つ本質を理解出来ることだと、わたしは思う。

この曲と振付を『踊る』事は、他の人でも出来るかもしれない。リズムや音にきっちり合わせればそれなりに踊れるだらう。

しかし、これは『踊る』だけでは駄目な音楽だ。

ここにある狂気や自分でも理解出来ない苦痛、得体の知れない闇の深さを感じ取って演じなければ、ただの《踊り》になってしまう。

羽生選手はそれを、狂おしいほどのエネルギーをもって、演じきった。

全12曲を演じなければならない、ソロのアイスショーで。

つまり、この後10曲あるのだ、、、、