『あの夏へ』ーーあの日私が感じたこと | しょこらぁでのひとりごと

しょこらぁでのひとりごと

羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。


(あんまり衝撃すぎて、文章がとっちらかってしまったので、一部書き直しています。すみません(汗))
 

 先日のSOI大阪で私の観たものについて、記憶が遠ざかる前に書き留めておきたいと思う。
(SOI奥州が今日から始まるのに、またまたタイミング悪すぎ(笑))

最初に断っておくが、私には、羽生選手がこの演技に込めたストーリーはわからない。
また、正直、今のところ、この作品にストーリーを求める気持ちになれない。それは、私が受け取ったあの時の印象があまりに素晴らしかったので、それをもう少し大事にしていたいからだ。
私は、ということなので、他の方がストーリーを求められるのは、当然あっていいと思う。羽生選手自身もそれを望んでいるかもしれない。
私にとっては、この日のこの演技は、純粋な芸術作品だった。そこに込められた、彼の心も含めて。
だから、今しばらくは、私は自分の受け取ったものを、じっくり温めていたいのだ。




器楽曲の良いところは、歌詞が無いため、様々な受け取り方が出来るところだと、私は思っている。受けとる人によって、様々な受け取り方があっていい、と思う。だから、それぞれの感じ方に、正解は無い。
フィギュアスケートもまた、そうだと思っている。
だから、私は私の感じたことを書くけれど、それはあくまで私の感じたことであって、そこに正解も間違いも、無いと思うので、そのつもりで読んで頂ければ、ありがたい。
だから、『私はあそこはこう感じたよ』というコメントは大歓迎です。


GIFTの『あの夏へ』について、わたしは

『しかし、この『あの夏へ』の彼は
静かで、
失われてしまったものたちへの追憶を思わせる。
失われたものたちは
それを思い出す心の有る限り
目には見えなくとも、この世界から消えてなくなりはしない。
この、青い照明の中の白い衣装で滑る羽生選手は
人々の心の中の、消えてしまったものたちの
面影をも映し出しているかのように感じられる。
幻影のような美しさ。』

と以前記事で書いた。

それは今回も変わらない。
しかし、今回感じたのは、それだけでは到底言い表しきれないものだった。

私は今回、アリーナ席だった。
だから、距離が近かった為かもしれないが
私が強く感じたのは、羽生選手から放出されるエネルギーの凄さだったのだ。

テンポの速い曲なら、どの演技者の演技からも
エネルギーを感じることが出来るだろう。
それは、激しい動きが生み出すエネルギーだ。
しかし、あれほど静かな佇まいの曲で
あれほどの凄いエネルギーの放出を感じさせる
選手を、私は知らない。
エネルギーというと、語弊が有るかもしれない。
何と言えばいいのか?
エネルギーの種類が違うのだ。
運動の持つエネルギーとは違う、別の種類のエネルギーなのだけれど。
蒼い炎が燃えているような印象だ。

楽器で言うと、フォルテで演奏する時、勿論エネルギーが必要だけれど、何小節もピアノやピアニッシモで演奏する方が遥かにしんどい。そういう感覚を想像していただくと、少し近いかもしれない。
ただし、羽生選手の動きは、実はとても激しい。
これだけ激しく動いているのに、静かさを感じさせるのが、また、凄い。

羽生選手のここでのエネルギーはとても静かで
それなのに、とても強く会場を満たしてゆく感じなのだ。
少なくとも私のいた席は、完全に彼のいる
異世界に取り込まれてしまって
まだ全部は戻りきって来れていないのだけれと(笑)

こんな事を書くと、ちょっとヤバいんじゃないかと思われるかもしれないので、ちょっと冷静になって、音楽のことを書いてみようと思う。
(GIFTの時にも触れたかったのだが、あまりに書きたい事が多すぎて、触れられていなかったので)

まず、この旋律に基づく曲が3つあることは、前に書いた通り。
私は『いのちの名前』を演奏することがあって、それ以来とても好きだったのだが、これは、少し切ないけれど、とても暖かい、それでいて透き通るような美しさも持つ、流れるような曲だ。
それに対して、『あの夏へ』は、はっきりと『追憶』を感じさせる。過ぎてしまったものを懐かしむ感じだ。勿論、暖かさや切なさも併せ持っているけれども、もっとウェットな曲になっている。

そして、今回の『あの日の川』は、前の二曲に対して、異なる和声を使っているところがかなりある。その和音が、大変強い印象を与えており、そのどれもが、不協和音、もしくはそれに近いものになっている。
それらは、この曲に、厳しさ、不穏さ、緊張感をもたらし、美しい和音群の中で、一際強く印象づけられる。

しかも、武部さんのバージョンは、装飾を殆ど取ってしまっていて、より簡潔で、研ぎ澄まされた感じを与える。
そして、その要望が、羽生選手から出されたのだろうな、と思うところがある。

例えば、途中、羽生選手がFの音で両手を前に押し出し、GIFTでは背景に大きな波しぶきのような映像が映し出されるところの続く4つの和音。
世の中に出ている楽譜では、レガートで繋がれ、最後の和音の左手は一度に弾くのではなく、アルペジオで弾くよう指定されている。
武部さんの演奏は、ここをクレッシェンドにしてゆくのは元の通りだが、レガートではなくアクセントにしていて、二つ目の和音でバスをバラける以外は、一度に弾いて、とても強い表現になっている。
これは恐らく羽生選手の要望に依るものではないだろうか。彼はこの和音に、強い感情を込めたかったのだと思う。

前後するが、最初の水の滴りを感じさせる和音の後、ピアノは、淋しいくらいにシンプルに、旋律を置いてゆく。そう、羽生選手がそれらの音を『置いてゆく』感じだ。
(この箇所も、必要最低限の音以外を省いてある。)
そして、水面に静かに広がる輪のように、それに添えられる和音の音が置かれて、広がってゆく。
恐らくここも、どうするか話し合われた箇所かな、と私は思っている。

それらの感覚総てが、まるで羽生選手から生まれてくるようだ。ここでは、彼の発するエネルギーは、静かで、緩やかな波だ。

そこから旋律を繰り返し、音楽は流れることを始めてゆく。

すべてを順を追って書くことは、記憶が定かではないので出来ないけれど、ピアノのメロディーが高音部で弾かれていたのに、急に低い音へ受け継がれるときも、伴奏のアルペジオを伴って全体が豊かな響きになって、こちらの胸に迫ってくるときも、すべての音楽の全ての瞬間が、羽生選手から湧き出てくる。
湧き出てくるというかーー音楽と羽生選手自身が、渾然一体となっている、と言ったらいいのか。境界線が無い感じだ。

しかも、そこに居るのは、彼であって彼ならざるもの。


実は、このアレンジだけを聴いていると、今一つイメージがはっきりしない感がある。羽生選手の演技がこの音楽に命を与え、その両方があって初めて、この世界が生み出されていると感じるのだ。
それが、今回はGIFTと違って他の要素が無い分、より明確に感じられた。

私は彼の手の動きひとつからさえも、音が零れ落ちるような感覚を覚えて震えた。
そして、その音の一つ一つに、彼の心が乗せられている感覚、、、、。


(余談だが、清塚さんといい、武部さんといい、その分野の第一人者が、羽生選手の求めるものを第一に考えてアレンジをなさるのが、本当に凄いなぁ、と思う。そうさせる羽生選手も凄いし、そうして下さる清塚さんも、武部さんも、凄い。)

これほどの一体感、そして世界観は、ほんのちょっとの綻び、ほんのちょっとの集中力の緩みで崩れてしまう。
恐ろしいほどのエネルギーを使わなければ、
あの世界は創れないだろう。

それを、彼は恐らく『ハク』として演じきった。
あの時私の目の前にあって、あの凄いエネルギーを放出しながら美しく舞う、それは、私には
完全に『ひと』ではないと感じられた。
私はその存在に、畏れながら魅了されていた。


この世のものならぬ美しさと同時に、そういった研ぎ澄まされた厳しさと、それらを生み出しているエネルギーの『波』が、私を圧倒したのだと思う。

音楽も、空気も、総てが、彼の発するエネルギーの波に呑み込まれて、混然一体になり、異世界を創り出すかのようだった。

気がついたら、私は泣いていた。


テレビで、この演技を是非放送して欲しいと思う。
けれども、もしかしたら、そういった感覚は、映像では伝わらないかもしれない。
そして、座った席によっても、違うかもしれない。
ただ、私が偶々今回ごく近い席にいることが出来たからであっても、彼の演技がそういう性質のものであったことには、変わりがないと思う。